静まりの時 2022年9月29日(木)
エペソ3・14~21
「そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」
(エペソ3・14~21、新改訳2017)
パウロはこの手紙の中で祈りをささげています。
「すべての聖徒たちとともに」キリストの愛を知ることができるように、と。またキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さが」どれほどであるかを理解する力を持つことができるように、と。そして「人知をはるかに超えたキリストの愛」を知ることができるように、と。
私たちはどのようなことを神さまにお祈りしているでしょうか。パウロのように、神さまの愛を知り、その愛に満たされることを祈るでしょうか。自分が満たされるだけではなく、すべての聖徒たちとともに満たされることを祈るでしょうか。
「人知をはるかに超えたキリストの愛」。キリストの愛は、人知を超えているのです。人知を超えているのですから、その愛を私たちは知ることができない、ということでしょう。私たちの理解の及ばないものが、キリストの愛である、ということでしょう。
しかしその愛を「知ることができますように」と、パウロは祈るのです。知り得ないものを知ることができるようにと祈ること。それは決して到達することができないものに向かって限りないあこがれを持ちつつ希求している、到達できないことをわきまえつつ、その愛を喜び感謝している、ということでしょう。
信仰生活は、愛に生きること、愛に生かされることです。それは愛の実践に生きるということでもあるかと思いますが、それ以上に、神さまの愛を知る、学ぶ生活である、と言えると思います。
神さまの愛はどのようにして知ることができるのでしょう。それは礼拝をささげることによって知ることができるのだと思います。また祈ることによって知ることができるのだと思います。ユダヤ人は立って祈ったと言われますが、そのユダヤ人であるパウロがここで「ひざをかがめて」祈っています。神さまの前にひざをかがめ、そうして神さまを礼拝し、神さまに祈ることによって、私たちは人知を超えた神さまの愛を知ろうとする喜びに満たされるのです。
私たちが毎週主の日に、そして日々主に献げる礼拝と祈りは、ひたすら人知をはるかに超えたキリストの愛を知るため、喜ぶため、感謝するためなのです。