静まりの時 2022年9月28日(水)
ヨハネ11・28~37
「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、『彼をどこに置きましたか』と言われた。彼らはイエスに『主よ、来てご覧ください』と言った。イエスは涙を流された。」
(ヨハネ11・33~37、新改訳2017)
ラザロの死の知らせが届いても、イエスさまはすぐに駆けつけることをなさいませんでした。もしすぐにでも駆けつけてくださったならば、ラザロは死をまぬがれたであろうと、マルタもマリアもイエスさまに告げました(21、32)。イエスさまさえここにいてくださったならば、問題はたちどころに解決したであろう、今悲しみ苦しんでいるようなことには私たちは出会わなかったであろう、と。しかしイエスさまはラザロが死んですでに四日を経過したときに来られました。神さまであるイエスさまがなさることは、すべてにおいて、その「時」があります。この時も、マルタやマリアの思いを超えた神さまの時が流れています。彼女たちは、やがて病気のいやし以上の神さまのみわざを目の当たりにします。神さまは、死をもご支配なさっておられることを知らされます。
イエスさまは、マリアが涙し、また彼女と一緒にいたユダヤ人たちも泣いているのをご覧になられました。悲しみに沈む人間を、神さまはご覧になって下さいます。そうして「霊に憤りを覚え、心を騒がせて」下さいました。死がもたらす絶望を、イエスさまご自身がその身に受け止めてくださったのでしょう。この「憤り」は、人間のあらゆる憤りを超えています。私たちには憤ることのできない憤りをイエスさまはその身において明らかにしてくださったのです。
私たちはどんなときに憤り、怒りを持つでしょうか。自分にとって不利益なことがなされたとき、自分の尊厳が犯された時、あるいは、社会の矛盾や不公平を目の当たりにしたとき、人の悪や社会の悪に直面したとき、などなど。憤り、怒りが私たちの心をふさぎます。しかしイエスさまのこの時の憤りは、そのいずれとも違うもの、異質なものではないかと思います。死がもたらす絶望に対してもつ憤り、本来持たなければならない怒りを、人間は持つことができないのではないでしょうか。その人間が持つことのできない怒り、憤りをここでイエスさまは、御身において明らかにしてくださったのではないか。
イエスさまは、こののち死んだラザロを生き返らせられます。ラザロが生き返ることをイエスさまはだれよりもご存じなのです。そのイエスさまが、ここで激しく憤っておられます。そればかりか、涙を流されるのです。
もちろん単なる同情の涙ではないでしょう。あるいは泣いている人たちを忖度して涙を流されているということでもないでしょう。大きな謎を秘めていると思います。その謎が、人間の持つどのような怒りとも違う怒り。神さまの怒りが明らかにされているのではないか。
憤り、心を騒がせる、涙を流す。この個所には、イエスさまの感情的な動きが、他に比べて豊かに記されています。神さまに感情がある、ということが語られているのだと思います。そのように神さまは人格をお持ちのお方である、と語られているのだと思います。イエスさまの、憤り、その息遣い、興奮され血走る眼差し、両眼から流され落ちる涙。実に生々しいイエスさまのお姿が現れているのではないか。
人間には及びもつかない憤り、そして涙。それは聖なる憤りであり、また聖なる涙なのだと思います。
人間の憤りや涙にはないものがそこにあります。希望のようなものがそこに在るような気がします。いのちの道をひらく憤りと涙。私たちが憤り、涙する時に、このイエスさまの聖なる憤りと聖なる涙に出会いたいと思います。
いく度か申し込んだものの、一昨年はコロナで参加できず、また昨年はオンラインでの開催だったのですが、私の病気で参加できずにいた牧師夫婦の静まりの会に、今回参加することができました。富士の裾野の静かな修道院に併設されている黙想の家を会場に、全国から30名弱の牧師夫婦が集まり、コーディネーターの牧師の進行により、静まりの時がもたれました。あいにく台風が近づいていることもあり雨模様の日が多かったのですが、帰路についた日以外は何とか天候が守られました。
カトリック教会の施設の多くには「十字架の道行き」があります。イエスさまの十字架への道が、14の場面(ときに復活を含めて15)に表現されて、緑豊かな施設の随所にちりばめられています。それを留というのですが、ゆっくりと歩いて巡り祈りの時を持つようにしつらえてあります。施設によってそのデザインはいろいろですが、この施設は一つの漢字をもってそれぞれの留が表現されていました。
この施設では、食事の準備などは、シスターさんたちがしてくださいます。その中には、大学教授を退官された方、いまも名誉教授としときおり講演会にて奉仕されるシスターももおられます。たいへん恐縮するのですが、謙遜を旨とするキリスト教会としてのあり方を学ばせていただくことでもありました。
せっかく遠出をしたので、いくつかの美術館も訪ねることにしました。その中の一つとして、クレマチスの丘、という庭園を兼ね備えた美術館を訪ねました。ここには、ヴァンジ彫刻庭園美術館とベルナール・ビュフェ美術館があります。ジュリア―ノ・ヴァンジはイタリアの彫刻家、ベルナール・ビュフェはフランスの画家です。いずれも現代的な作風で、ユニークな作品も多いのですが、キリスト教信仰をテーマにした作品も数多くありました。なかでもビュフェの「キリストの受難・笞刑(ちけい)」そして「キリストの受難・復活」は圧倒的な存在感がありました。聖なる憤りと聖なる涙があふれているような作品でした。
このクレマチスの丘に向かう前に「神山復生記念館」に立ち寄りました。記念館は神山復生病院の一画にあります。ここはかつて日本で最初のハンセン病患者のための療養施設のあったところです。昨年入院中にそれまで買っただけで読んでいなかった岩下壮一の『信仰の遺産』を読みましたが、この岩下壮一神父が奉仕したところです。現在は見学が中止されているので外から記念撮影をしただけとなりましたが、すこし岩下壮一の思いに出会うことができたでしょうか。