静まりの時 2022年9月15日(木)
マルコ10・46~52
「46 さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。
47 彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、『ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください』と叫び始めた。
48 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、『ダビデの子よ、私をあわれんでください』と、ますます叫んだ。
49 イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい』と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる』と言った。
50 その人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
51 イエスは彼に言われた。『わたしに何をしてほしいのですか。』すると、その目の見えない人は言った。『先生、目が見えるようにしてください。』
52 そこでイエスは言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。』すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。」
(マルコ10・46~52、新改訳2017)
「ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞い」。目が見えないこと。生まれつきであったのか、それとも何か病か事故で目が見えなくなったのか、分かりません。当時、社会福祉が現在のような状況でなかったなかで、目の見えない人がどのようにして生活していったのか。物乞い。人の愛と善意にすがるしかない人生となったことは容易に想像できます。
そのような中にイエスさまのうわさを耳にしました。ダビデ王の再来であるという人もいます。数々のいやし、なかには死人を生き返らせたということも聞こえてきます。バルティマイは、このイエスさまにかけようと心に決めたことでしょう。ちょうどイエスさまの一行がそば近くを通られることが分かりました。どれくらい近づかれたのかわかりません。ただ耳と身体に受ける気配を頼りに、叫び始めました。「ダビデの子イエス様、私をあわれんでください」。人の愛と善意にすがるしかなかった人生に大きな変化が訪れようとしています。
「多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめた」と言います。どうしてでしょう。忙しかったのでしょうか。先を急いでいたからでしょうか。イエスさまにそのような様子を見て、多くの人たちは忖度したのでしょうか。しかしバルティマイは、多くの人がたしなめるのにも関わらず、ますます叫びます。
するとイエスさまは立ち止まられました。「あの人を呼んで来なさい」。もしかするとたしなめた人たちもどこかほっとして呼びに行ったのかもしれません。彼らはその目の見えない人を呼びに行きました。「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」。
この「心配しないでよい」は、口語訳では「喜べ」、新共同訳、共同訳2018では「安心しなさい」、原文としては「しっかりしなさい」「勇気を出しなさい」といった意味です。英語のある訳では「Cheer up!」。チアーというとチアリーダーのチアでしょう。さっきまでたしなめていた人たちが、ここでバルティマイを励ましているのです。
この言葉を受けてバルティマイは、「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来」ました。上着というのは、現代の感覚での上着というよりも、「一張羅」という意味だそうです。ある説明では、物乞いをするときに、座るための敷布にもなり、またほどこしを入れてもらうために前に広げる風呂敷にもなった、とか。バルティマイにとっては商売道具のようなものだったのかもしれません。そうであれば、かれはここでそれを「脱ぎ捨て」ていることになります。過去に決別しているともとれる行為です。イエスさまへの期待の大きさを想像します。このときまだ願いが聞かれているわけではないにも関わらずバルティマイのなかに「喜び」が生まれています。
イエスさまはそんな彼に問われました。「わたしに何をしてほしいのですか」。
目の見えない物乞いが、あわれんでほしいと叫んでこちらにやって来たのですから、なにがしかの施しを求めたとも想像できるでしょう。また、ダビデの子よ、と叫んでいるのですから目が見えるようになることを切望していたとも想像できるでしょう。イエスさまは神さまですから、人の願いがなんであるかをご存じなのだと思います。しかしイエスさまは問われました。イエスさまは問われる神さまなのです。人間は神さまからのその問いに応えなければなりません。バルティマイは答えました。「先生、目が見えるようにしてください」。ここに祈りが生まれています。
イエスさまは言われました。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました」。まだいやされているわけではないでしょう。しかし「さあ、行きなさい」と言われるのです。いやされたことが確認されれば行きます、と言いたいところですが、イエスさまはまず行きなさいと言われたのです。そしてさらに「あなたの信仰があなたを救いました」と言って下さいました。
「すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った」。イエスさまの言葉が語られるや否や、バルティマイの目は見えるようになりました。バルティマイは、行きなさい、と言われたのですが、道を進むイエスさまについて行きました。イエスさまが進まれる道は十字架への道です。バルティマイはそのイエスさまについて行きました。弟子となったのです。
「あなたの信仰があなたを救った」。このイエスさまのことばにバルティマイは、私の信仰もまんざらでないな、と誇ったでしょうか。そんなことはなかったでしょう。バルティマイの信仰深さが自らに癒しをもたらしたのではありません。自分の中に信仰のないことはだれよりも知っていたことでしょう。ただひたすらイエスさまの愛がバルティマイにいやしをもたらしたのです。しかしそんなバルティマイに「あなたの信仰が」とイエスさまは言われるのです。バルティマイにとって、ありがたく愛に満ちた優しい言葉として響いて来たのだと思います。信仰のない者に向かって「あなたの信仰が」と言って下さるイエスさまの優しさに私たちは出会っているでしょうか。
「ティマイの子のバルティマイ」。この個所の共観福音書での並行箇所と考えられるマタイ9章27~31節、20章29~34節、ルカ18章35~43節には、バルティマイという名前が書かれていません。マルコだけが丁寧に名前を紹介しています。しかも「バル」ということばは「子ども」という意味ですから、むりやりに直訳すると「ティマイの子のティマイの子」ということになります。よほどこの盲人だった人は「ティマイ」の「子」なのだ、あの「ティマイ」の子なのだ、と紹介したかったのではないかと勘繰りたくなります。
おそらくマルコの福音書の最初の読者にとって「ティマイ」という人物にはなじみがあったのでしょう。もしかすると教会のメンバーだったのかもしれません。そのティマイの横にいつも座っている青年がいたのでしょう。何の不自由もない一人の青年。しかしかつて目が見えず物乞いをしていた、その証しが語られていると想像しても良いのではないでしょうか。イエスさまの弟子となった父と子の姿がそこにあったのだと思います。「あなたの信仰が」。そのあなたの信仰と言われた信仰は、イエスさまが与えてくださったものだと、この時も彼らは喜んでいたのだと思います。そしてその喜びを、教会もまた喜んでいたのだと思います。