生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです

静まりの時 2022年9月14日(水)
ローマ14・1~12

「・・・私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。
 それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。」
(ローマ14・7~10、新改訳2017)

 「信仰の弱い人」とは、偶像にささげられた肉は食べない、ある日を別の日よりも大事だ、と考える人たちのことです。宗教的に厳格に生きようとする人たちのことですが、そのような人のことをパウロは「信仰の弱い人」といいます。教会は、そのような弱い人を受け入れるところです。もちろん逆に強い人、すなわち何を食べても大丈夫、日のことなど一切気にしない、という人も安心していることのできるところ、それが教会です。弱い人に強くなりなさいというところではありませんし、強い人に弱くなりなさい、というところでもありません。教会はどのような考え方の人も安心していることができるところです。
 ですから、互いにさばくということをしないところでもあります。「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です」(4)。つまり、みなイエスさまが主人なのだから、しもべ同士であるお互いがさばくなどということはしない、それが教会だ、というのです。お互いにさばくということが起こるとすれば、それはさばく方が自分を主人にしていることであって、イエスさまを主人としていない、ということでしょう。

 私たちはさばく者ではなく、イエスさまにさばかれる者です。みなさばきの座につく者です。キリスト者は、イエスさまがさばき主であり、自分がそのさばきの前に立たなければならない、ということを知っている者です。この世のだれよりも知っている者です。そしてイエスさまのさばきこそ、徹底したさばきであり、また完全なさばき、正しいさばきである、ということを知らされた者です。
 イエスさまに救われた、ということは、このさばきを知っている者になったということですから、誰彼をさばくまえに、自分自身を深く吟味することができる、それがキリスト者です。

 竹森満佐一牧師の説教集からこの個所の説教の言葉を引用してみましょう。

「ほんとうに人をさばくことのできる者は、キリストだけであります。信仰者は、正しさを求めることについては、だれにも劣らない者であります。正しさについて敏感であるわれわれは、ひとの間違いをすぐに見付けることができるのです。しかし、それとともに、自分はキリストにさばかれたものとして謙遜になり、また、真のさばきは、キリストに委ねるところがなければなりません。それは、また、自分がさばくことをひかえるということにもなるのであります」(竹森満佐一、『ローマ書講解説教 3 9章1節~16章27節』、新教出版社、1972年5月25日、271頁)

 ということで、まことのさばき主であるイエスさまを信じてイエスさまを主とするという信仰生活においては、自分が誰かをさばくということをひかえることになります。