静まりの時 2022年9月1日(木)
テトス2・11~15
「実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望むように教えています。
キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。
あなたは、これらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。」
(テトス2・11~15、新改訳2017)
「すべての人に救いをもたらす神の恵み」が「現れた」。共同訳2018では「救いをもたらす神の恵み」は「すべての人に現された」。微妙に違いがありますが、聖書の語る救いは、すべての人を救うものであり、またその恵みが、すべての人に現されたのだ、ということでしょう。
その「恵み」とは、私たちが「不敬虔とこの世の欲を捨て、今の世にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活」することを教えています。また「大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリストの、栄光ある現れを待ち望む」ように教えています。敬虔な生活と待ち望みの生活が、キリストを信じた者の生活である、というのです。恵みに生きる、生かされるということは、この敬虔な生活、待ち望みの生活をする、ということです。敬虔な生活、待ち望みの生活がない、というならば、いまだ恵みに生かされていない、ということになるでしょう。イエスさまを信じて救われたのだから、何をしていても天国に行けるのだ、と開き直って好き勝手な生き方をするとすれば、残念ながら恵みに生きているとはいえないのです。
キリストの十字架は「私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため」である、そのような私たちとなるために「ご自分を献げられた」のです。主の十字架の犠牲は、罪びとである私たちが、罪びとでありながらも神さまに義と認められるための身代わりの犠牲である、というのですが、そのような「擬制的」なものだけではなく、文字通り「きよめるため」の犠牲であった、ということでしょう。
そのようなことを教えることは、なかなか難しいことです。テトス2章1節からは、健全な教えにふさわしいことを語りなさい、と言われ、年配の男性、年配の女性、若い人、奴隷に対して、具体的なキリスト者としての生き方を教え勧めなさい、と語られています。若い牧師が、さまざまな人生経験、社会経験を積んだ人びとに向かって、聖い生き方を諭すということは、語る方にチャレンジがありますし、また聞く方も簡単なことではないでしょう。パウロは「これらのことを十分な権威をもって語り、勧め、戒めなさい。だれにも軽んじられてはいけません」と重ねて語りました。権威をもって語りなさい、だれにも軽んじられてはいけない、というのですが、一所懸命権威をもって語っても、軽んじられないように頑張っても、こればっかりは難しいものです。大きな声を出せばいいということでもないでしょう。格調高い難しいことばを使えばいいということでもありません。若い牧師がいきなり老齢な牧師になることもできません。
「権威」という言葉とよく似た言葉に「権力」というものがあります。よく似ていて全く違うものだと思いますが。権力というのは自分自身が主張することであり、権威はまわりの人がつけてくれるものではないかと思います。だれもその権威を認めていないにもかかわらず、自分には力があるのだ、と強権をふるまうのは権力でしょう。それに対して、権威は、本人が何も主張しなくても、周りの人が感じるものでしょう。権威をもって語ろうと躍起になればなるほど、権力を振りかざすことになって、周りからは疎まれるということもあるでしょう。難しいものです。
神学校で、教理史、教会史を指導してくださった恩師の先生の授業はいつも権威に満ちていました。その先生が教室に入って来られると、教室の空気がピンと張りつめるのです。怖いという感じではありません。児童教育学科や幼稚園が併設されていましたので、子どもたちがよく出入りしていたのですが、ある時など紙飛行機で子どもたちと一緒に遊んでおられました。優しい先生でした。しかし教理史、教会史を説く授業は、まるで鋭い諸刃の剣をもって、学ぶ私たちの心に分け入るようなものでした。時を超えて歴史に生きた先輩のキリスト者たちの信仰が、そのまま教室にあるような、そんな学びだったように思いました。ときおり礼拝で説教をしてくださるのですが、御言葉の前に一人立たされるような温かな孤独というような気持にさせられた説教でした。権威があったのだと思います。
若い牧師にはチャレンジです。しかし教会が、その祈りの中で権威を育んでいくことができれば、すばらしいことではないかと思います。またそのような権威が育まれて行くということがないと、信仰の成長はあり得ないのではないか、と思います。