毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き

静まりの時 2022年8月31日(水)
使徒2・43~47

「すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。」
(使徒2・43~47、新改訳2017)

 「恐れ」と「不思議としるし」。神さまへの畏れが、不思議としるしを生み出しました。この順序は大切かもしれません。不思議としるしが神さまへの畏れを生み出したというよりも、神さまへの畏れが不思議としるしを生み出したのです。神さまを畏れる、ということはいたずらに恐怖することではなく、愛する、ということでしょう。愛のあるところに不思議としるしが起こるのです。
 不思議としるしによって愛が生まれるとすれば、その愛は本当の愛ではありません。たとえば妻を愛するという時に、愛するに値するしるしを見せよ、そうすれば愛そう、というのでは、愛ではないですね。愛は信頼であり決意です。そこには少なからずリスクがあります。しるしによって証拠を確かめて、そうしてリスクを無くして愛してあげよう、というのは、愛ではないのです。神さまを愛する、すなわち神さまを信じる、ということもそれと同じです。
 神さまへの畏れ。神さまの前にひざまずき、へりくだる者に、神さまは私たちの思いを超えた不思議としるしを明らかにしてくださいます。

 「一切の物を共有し」。新しい経済のシステムを構築しようとしていたのではないでしょう。ただ貧しい者の生活が守られるように配慮していただけなのだと思います。イエスさまを信じて、神さまを父と呼び、イエスさまを長兄とした交わりの中に生きるようになった人びとは互いに兄弟姉妹と呼び合いました。それはただ宗教上のことだけではなく、実際の生活において家族のように生きるということを生み出した、ということです。組織的に行ったというよりも、誰に強制されるのでもなくそれぞれが導かれるままにそのように生きた、そのように生きることが自然なことであった、ということでしょう。

 「毎日心を一つにして宮に集まり」。日曜日を主の日と呼び礼拝の日としたことは、ユダヤ教からキリスト教に脱皮していく中では大きなことだったのだと思います。しかしそれは最初からの戒律として行われていたことではありませんでした。ユダヤ人であった最初のキリスト者たちは、土曜安息を守っていました。それに加えて日曜日の朝に礼拝をささげるようになり、宣教の広がりによって異邦人キリスト者が多数となる中で土曜安息が次第になくなり、日曜日を礼拝の日とした、ということが実情でしょう。
 ここには、彼らの礼拝生活は「毎日」であったことが分かります。主の復活の朝を覚えて日々神殿に集まり礼拝をささげていました。また仕事を終えるとまた神殿に集まったのです。今でもカトリック教会などは、毎日礼拝をささげています。コロナ禍で集まることができない状況では、司祭さんだけがミサをささげておられます。

 「家々でパンを裂き」。愛餐の交わりも大切にしたようですが、何よりも聖餐の交わりを大切にしました。神殿に集まって聖餐式をしたというのではなく、兄弟姉妹の家々に集まって、そこで聖餐式をしたのです。そしてそれが彼らの礼拝生活でした。

 「神を賛美し、民全体から好意を持たれていた」。神さまを賛美する彼らを見た「民全体」は彼らに好意を持ちました。好意を持たれるような「彼ら」だったのです。人間が神さまを賛美する、すなわち礼拝をささげるという姿は、人間本来の姿でしょう。神さまは人間をそのように造って下さったのです。人間が造られた目的は、神さまを賛美し礼拝することです。ですからその姿は美しいものです。好意を寄せたくなるような姿であるはずです。自己中心の罪から救われて、神さまの前にひざまずく人間の姿は、この上もなく美しいものなのです。

 「主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった」。初代教会に起こった迫害は、多くの場合、権力者による政治的な操作であった、ということでしょう。隣の人に毛嫌いされたといった感情的なものではなかったのだと思います。むしろ救われる人びとが起こされて行きました。彼らはトラクトを配ったわけではありません。伝道集会を開催したわけでもないのです。ひたすら日々主を喜んで生きていただけです。それが最大の宣教の力であった、ということでしょう。逆に盛んな伝道活動があったとしても、喜んで主をほめたたえる、主を喜んで生きている、という「生きざま」がなければ、伝道が前進するはずがありません。
 救われるということは「一つにしていただく」ということでもあります。ですから教会は多くの場合「会員制」を持っています。それは組織を維持拡大することが目的というのではなく、教会は互いに責任を持つ共同体として成長していったということであり、その群れに加わることが即ち「救われること」であった、と聖書は語るのだと思います。イエスさまを信じたと言っても、依然自分勝手に生きているとすれば、それは救われているとはいえないのではないか、ということでしょう。信仰は、個人的な出来事ですが、決して個人主義ではない、ということです。ですから洗礼式は、洗礼入会式とも言われるのです。

 今朝の個所は、使徒の働き4章32~37節にも繰り返し記されていますので、あわせて読むのがいいと思います。