静まりの時 2022年8月29日(月)
ヘブル10・19~25
「約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。」
(ヘブル10・23、新改訳2017)
「約束してくださった方」すなわちイエスさまは「真実な方」です。「真実」という言葉は、信頼できる、忠実な、確かな、とも訳される言葉です。裏切ることがない、どっしりと構えていてゆるぎない、頼りになる存在ということです。
「私」を見れは、頼りになるどころか、あやふやで信頼などできるはずのないようなものです。ですから自分の真実が、信仰を支えているのではありません。私たちの信仰は、神さまのご真実に支えられているのです。
このイエスさまが今日もともにいてくださいますから、私たちは動揺する必要がありません。揺れ動かなくてもよいのです。イエスさまの御手の中で安んじていればよいのです。
「私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか」。
共同訳2018では
「告白した希望を揺るぎなくしっかり保ちましょう」。
この文章は「保ち続ける」「引き止める」「防止する」「持つ」という動詞があり、それに「告白する」という分詞がどう結びつくかによって微妙に訳文が変わっているようです。新改訳では「告白し」「続けよう」と訳し、共同訳2018では、「告白した」「希望」を「しっかりと保ちましょう」と訳されています。
新改訳の方では、いつも希望を告白し続ける、どんな時にも希望を語る、という生き方に招かれているということです。共同訳の方では、(すでに)「告白した希望」というものがあって、それを「しっかりと保ち続けよう」ということになります。
いずれも大切な信仰の生き方と恵みが語られているのだと思います。
神さまを信じる者のうちにはいつも希望がある、その希望は告白されるものである、その生活のどこを切り取っても、希望がほとばしり出てくる、なぜならともにいてくださるお方が真実な方だからだ、というのです。何と幸いなことでしょう。
土曜日に教会で小さなお葬式が行なわれました。かねてより闘病中の姉妹が、退院後の住いを考え始めていた矢先に天国に召されました。ご家族の喪失のかなしみはいかばかりかと思います。
葬儀では伝道者の書3章と第二コリント1章から、お奨めをさせていただきました。
すべてには「時」がある、私たちにとっては良く思える「時」もそうでない「時」も、そのすべては神さまの御手の中にある、私たちには解明できないことばかりだけれども、善いお方である神さまのみこころの中での「時」なのだから、しずかな心でその時を過ごそう、神さまを信頼してこの時を過ごそう、と学びました。
また第二コリント1章には、パウロがコリントの教会に当てた手紙のあいさつ文が記されています。そこには、繰り返し「苦しみ」「苦難」という言葉と、もう一つ「慰め」という言葉が語られています。苦難と慰めがセットであること、苦難はできるだけないほうがよいのだけれども、苦難の時こそ、神さまの慰めをいただくことができる、慰めの前提には苦難がある、そして神さまからの慰めをいただいた者は、また誰かを慰める者となる、慰めの使者として神さまは遣わしてくださる、と学びました。
召された姉妹の信仰の歩みを振り返ると、そこには数々の苦難を数えることができるのだと思います。しかしいつも明るく、前向きに生きようとした姉妹は、まさに神さまに慰めをいただいた方でした。そして、その神さまからいただかれた慰めをもって、また遣わされておられたのだ、と思いました。「先生、ほら、こんなに歩けるようになりました」。杖を使いつつ、ベッドの枠を助けにしつつ、懸命に闘病する姉妹の姿。ときおり病室からかけて来てくださった電話の声。今頃は二年前に病床洗礼を受け信仰を持って天に帰られたご主人と再会を果たし、ともに全き神さまの憩いの中に安んじておられることでしょう。続いてお家族の慰めを祈ります。