静まりの時 2022年8月24日(水)
第二テモテ2・14~26
「14 これらのことを人々に思い起こさせなさい。そして、何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになる、ことばについての論争などをしないように、神の御前で厳かに命じなさい。
15 あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。
16 俗悪な無駄話を避けなさい。人々はそれによってますます不敬虔になり、
17 その人たちの話は悪性の腫れもののように広がります。彼らの中に、ヒメナイとピレトがいます。
18 彼らは真理から外れてしまい、復活はすでに起こったと言って、ある人たちの信仰をくつがえしています。
19 しかし、神の堅固な土台は据えられていて、そこに次のような銘が刻まれています。『主はご自分に属する者を知っておられる。』また、『主の御名を呼ぶ者はみな、不義を離れよ。』
20 大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用いられます。
21 ですから、だれでもこれらのことから離れて自分自身をきよめるなら、その人は尊いことに用いられる器となります。すなわち、聖なるものとされ、主人にとって役に立つもの、あらゆる良い働きに備えられたものとなるのです。
22 あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。
23 愚かで無知な議論は、それが争いのもとであることを知っているのですから、避けなさい。
24 主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、
25 反対する人たちを柔和に教え導きなさい。神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を悟らせてくださるかもしれません。
26 悪魔に捕らえられて思いのままにされている人々でも、目を覚まして、その罠を逃れるかもしれません。」
(第二テモテ2・14~26、新改訳2017)
使徒パウロから若い伝道者テモテへの言葉。テモテが直面している教会の問題に対してどのように対応すべきかをパウロが語ります。
避けるべきことは、
「何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになる、ことばについての論争などをしないように、神の御前で厳かに命じなさい。」(14)
「俗悪な無駄話を避けなさい。」(16)
「愚かで無知な議論は、それが争いのもとであることを知っているのですから、避けなさい。主のしもべが争ってはいけません。」(23,24)
つまり論争を避けよ、とパウロはすすめています。
逆に追い求めていくこととしては、
「あなたは務めにふさわしいと認められる人として、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神に献げるように最善を尽くしなさい。」(15)
「あなたは若いときの情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(22)
「すべての人に優しくし、よく教え、よく忍耐し、反対する人たちを柔和に教え導きなさい。」(24,25)
つまりひたすら聖書の御言葉を語る者として、自分を献げ、義と信仰と愛と平和を追い求め、優しさをもって、教え、忍耐し、柔和に教え導きなさい、とすすめています。
使徒の働きを読むと、パウロ自身は、かなり論争をした人のように思えます。しかしよく読むと、パウロはひたすらイエスさまのこと、イエスさまの十字架と復活、その真理だけを語っていることが分かって来ます。使徒の働きの最後の言葉は以下の通りです。
「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(使徒28・30,31)
私たちはどうして論争に流されて行ってしまうのだろうかと思います。きっと自分の正しさを主張したいからなのだと思います。最近半藤一利の『人間であることをやめるな』を読んだのですが、その中に日露戦争で戦死した兵士の数が書かれていました。この戦いには日本は勝利したと歴史の教科書では学ぶのですが、兵士の戦死者数は、日本もロシアもあんまり変わらないのですね。戦地に別けてあげられているのですが、ある戦地では日本兵の戦死者の方が多かったりもしています。いったい勝つということはどういうことなのだろうかと考えさせられることでした。戦争は何も生み出さない、ということなのだともいます。論争も同じでしょう。論争ということ自体も、なにも生み出さない、とパウロはテモテに語っているように思います。伝道者は、ひたすら「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教える」ためにイエスさまに召されたのです。主の日が近いと信じて今の時を大切に歩むようにキリスト者は教えられています。時間は限られているのです。無益な論争はできるだけ避けて、宣教に前進しなければなりません。