二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです

静まりの時 2022年7月25日(月)
マタイ18・18~20

「また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

(マタイ18・15~20、14、新改訳2017)

 19節の「どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます」という聖句を読んで「どんなことでも」ということを私たちはどのように考えるでしょうか。そこに私たちのさまざまな「願望」や「欲望」といったことを考えるでしょうか。
 聖書は文脈で読まないと誤解してしまうところがいくつもあります。ここも「どんなことでも」とは、15節からの段落の中で、その文脈の中で考えなければならないでしょう。共同訳2018では、表題として「きょうだいの忠告」とあります。つまり「どんなことでも」ということの中身は、罪を犯した兄弟(姉妹)の罪の赦しに関わることである、ということです。罪を犯している信仰の友がいる、その友の罪を教会がどのように取り扱うのか、その文脈の中で、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天の父はかなえてくださる、というのです。神さまがかなえてくださる、という信仰を持って、兄弟の罪を扱っていく、それが教会の姿である、というのです。

 まず、罪を犯す兄弟に対しては「二人だけ」のところで指摘せよ、と言われました。それはそこでこそ真実に罪を告白することができる、悔い改めることができる、ということでしょう。もしそこでその兄弟が聞き入れ悔い改めることができるならば、兄弟を得たこと、取り戻したことになる、といいます。
 兄弟を得た、ということは、それまでは失われていた、ということでしょう。罪の中にある兄弟は、教会にたとえ出席していたとしても、教会にとっては失われた存在である、ということでしょう。
 「もし聞き入れないなら」。聞き入れないということも教会では起こったということでしょう。みな神さまの前に歩む信仰者ですから、そして悔い改めて新しく生き始めたキリスト者なのですから、もし罪の指摘がなされたならば、悔い改めるのがキリスト者の本来です。しかし聞き入れない、悔い改めない、という兄弟もいた、それが初代教会の現実でした。
 聞き入れないならば、一人か二人を連れて行って指摘しなさい、それでも聞き入れないならば教会に伝えなさい、と続きます。教会は真偽を明らかにするところであり、兄弟をある意味で「さばく」ところでもありました。教会は愛と赦しの場所ですが、それは真偽があやふやなところである、ということではありません。教会は聖いところです。イエスさまのお身体そのものです。その教会のまえに罪を指摘するということをイエスさまは教会に命じられたのです。そして初代教会はそのようにしたのです。
 しかしそれでも自らの罪を悔い改めるということをしない兄弟もいたのですね。その時には「異邦人か取税人のように扱いなさい」とイエスさまは言われました。この場合の異邦人、取税人、というのは、イエスさまが公生涯において受け入れられた異邦人や取税人という意味ではなく、簡単にいうと教会の交わりと一線を引きなさい、という意味のようです。
 この文脈の中で語られたのが18節以降です。

「まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。」(18)

 教会は天国のカギを神さまから預かっている、ということです。もし教会が罪に対してあやふやな判断をするならば、この地上にはもはや正しい判断のできるところがなくなってしまう。教会は、この地上においてさばきの最後の砦なのです。

「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。」(19)

 「どんなことでも」とは、罪を犯した兄弟の取り扱い上のでの祈りということです。罪を犯した兄弟が、教会の前に悔い改めるならば、それがどんな罪であったとしても、教会が赦しを祈るならば、神さまはその祈りをかなえてくださり赦してくださる。しかし悔い改めることがないならば、教会はその兄弟に厳しく接することになる、その教会のありかたを神さまはしっかりと受け止め、その祈りをまたかなえてくださる、というのです。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(20)

 教会もときに間違いを犯します。しかしイエスさまがともにいてくださる、だからどんなに失敗をしても、自信を失ってはいけない、教会は天国のカギを預かっているのだ、一所懸命、教会が聖なる場所であるために祈りなさい、教会こそ聖さの最後の砦なのだ、と励ましてくださっているのだと思います。

「心を一つにして」(19)

 原文のギリシャ語では「スンフォネオー」。「スン」は、一緒に、「フォネオー」は、声を出す、叫ぶ。「調和する」という意味です。シンフォニー(交響曲)の語源です。
 オーケストラにはいろいろな楽器があります。音色もその時に出される音階も違いがあります。しかしそれらが調和して、一つの音楽が奏でられます。
 心を一つにすると言っても、みなが同じ顔、同じ言葉を持つわけではありません。様々な個性を持っています。持っていて良いのです。しかしそれらが、イエスさまがともにいてくださることで、一つに調和していく、そうして教会の聖さのためにともに戦い、ともに祈っていく。その祈りをイエスさまはかなえてくださるのです。

 昨日は健やかな主の日を過ごすことができました。お祈りありがとうございます。