静まりの時 2022年7月18日(月)
エゼキエル36・33~38
「神である主はこう言われる。
『わたしがあなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人の住めるところとし、廃墟は建て直される。荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒れ野と見なされていたが、耕されるようになる。
このとき、人々はこう言うだろう。
「あの荒れ果てていた地はエデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、破壊されていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった」と。・・・』」
(エゼキエル36・33~35、新改訳2017)
創世記1章から2章にかけて神さまの創造のみわざが記されています。神さまの創造のみわざはことごとく「善い」ものでした。しかし人間は罪を犯し、それによってエデンの園から追放されました。人間はそれまで完全な世界に置かれていましたが、エデンの園から追放されて以来、不完全な世界に住むことになりました。
神さまの創造のみわざはこうして、いわゆる失敗に終わってしまいました。失敗に終わったのですから、すべてをリセットし、あるいは滅ぼして、また最初から創造しなおされてもよかったのかもしれません。しかし神さまはそうはなさいません。エデンの園から追放された人間に再び生きる道を備えられます。人間の罪によって壊れてしまった世界を再創造されるのです。創造主である神さまは、すべてのことを再創造する神さまでもあるのです。
創造のみわざが創世記1~2章に記されているのですが、それ以降はすべて再創造される神さまのみわざが記されているのかもしれません。人は幾度も破壊するのです。しかしその都度神さまは再創造してくださるのです。イエスさまの十字架と復活のみわざは、この再創造のみわざの頂点なのだと思います。完全な神さまの再創造のわざが十字架と復活においてなされました。私たちは幾度も罪を犯します。これからも犯し続けます。しかし十字架と復活の主が共にいてくださるので、常に再創造のわざにあずかりながら生きていくことができます。
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第二コリント5・17)
失敗をして終わりであるならば、誰も生きていくことができません。しかし再創造してくださる創造主がいてくださるので、私たちは今日も生きていくことができます。「七転八倒」という言葉があります。7回転んでも8回目に倒れてしまう、最後は倒れてしまう、という言葉ですが、キリスト者はそうではありません。「七転び八起き」。7回転んでも、また8回目に起きる。それがキリスト者なのです。
エゼキエル書の上記の言葉に続く37章では「枯れた骨の幻」が記されています。枯れ果てていのちを失っていると見える骨にも、神さまがひとたび息を吹きかけてくださると、再び生きるようになるのです。デューク・エイセスがカバーしていて学校でも歌うことがあるのでしょうか。♪「Ezekiel connected dem dry bones・・・Now hear the word of the Lord」♪
主の日を終えて月曜日。健やかな朝を迎えています。腰痛もずいぶん和らぎました。お祈り感謝します。
昨日は説教にて悔い改めについてお話ししていました。老眼が進んでいることもあり、また腰痛と、やや高めの血圧のせいか、途中で何を話していたか分からなくなる時がありました。アクセルを踏みすぎてレッドゾーンに入っているときに思わずクラッチを切ってしまったみたいな感じでしょうか。(よく分からない説明ですが)。あらためて悔い改めの恵みを書いておきたいと思います。
人間は生まれて以来、「自分という存在」と付き合いながら生きています。この「自分という存在」は人生のテーマであり、何よりも大切なものです。ですからいつのころからか、この「自分という存在」を評価しながら生きるようになりました。人からどのように思われているだろうか。自分は自分のことをどう思っているのだろうか。などなど。
その評価が低くなるとがっかりし生きる力を失ってしまいます。自分なんかだめだ~となってしまいます。逆に人からほめられたり、自分でもなかなかよくやっているな、ということを発見するとうれしくなり力が湧いてきます。そうして人生を生きていきます。
この「自分という存在」の評価が、上がったり下がったりしても、ある程度のふり幅であるので、大抵は喜怒哀楽の中で健やかに生きていきますが、このふり幅が大きくなると、ちょっとしんどい人生になります。自分自身の失敗や他人からの否定的な言葉などによって、落ち込んでしまいます。生きる力を失ってしまいます。逆に喜びが大きいと、何ものかになったかのような全能感に満ちあふれてしまいます。その時はそれはそれでよいのかもしれませんが、後で考えるととんでもないことをしでかしたりするので、またまた落ち込んだりします。ジェットコースターのような人生です(笑)。
悔い改めとは方向変換である、といいました。つまり上記のような「自分という存在」がテーマとなっている人生から、180度方向変換して、神さまの方を向くのです。神さまが自分のことをどのように思っていてくださるのか、を大切に生きるようになることです。どんなに失敗をしても、神さまの愛は変わらない。どんなに喜ばしい出来事に出会っても、それも自分が築いたもの、自助努力で獲得したものではなく、神さまが与えてくださったこととして健やかに受けとめる。悔い改めるということは、そういう人生に変えられるということです。
そこであたらめて説教でも引用した竹森満佐一牧師の説教集からの言葉を以下に引用してみます。第二サムエル記12章の説教です。
「他の人のことを責めるのは、実にやさしいのです。だから、何が悪いかということが、分からないわけではありません。それは、むしろはっきりしているのです。だからいくらでも、ひとの悪口なら言うのです。しかし、自分のこととなると、話がちがってくるのです。だから、結局、自分だけはいい子でいたい、自分だけは、正しいと言い張りたい、というだけでありましょう。問題は、自分の罪を認めるかどうか、であります。それの本当の意味は、自分を失う勇気があるかどうか、ということであります。」
(竹森満佐一、『ダビデ-悔いくずおれし者』、日本基督教団出版局、1975年、131頁f)
「自分を失う勇気があるかどうか」。悔い改めるということは「自分を失う勇気」である、というのです。上記のように「自分という存在」を、自分が保たなければならない、成り立たせなければならないと思っていると、その「自分という存在」には、もともと欠けがあり失敗があるのですから、つねにその失敗や欠けの部分を補い続けなればなりません。補修し続けなければならない。だから言い訳の人生になるのです。あの時はこうだった、あれはあの状況が悪かった、実はそんなつもりではなかった、自分という存在はもっと良いものなのです、分かって下さい、と、いうことばかりを並べ立てる人生となってしまいます。そうして自分にしがみつき続ける人生となるのです。
悔い改める、ということは、そういうことを一切やめてしまうこと。つまり自分で自分を修復しなければならないという呪縛から解放されること。自分を、自分の手から放してしまうこと。自分を「失うこと」なのです。
自分を失うといっても、「どぶ」のようなところに自分を捨ててしまうのではありません。神さまの御手にお委ねするのです。お献げするといってもいいかもしれません。失敗ばかりして、その性根も腐敗していて、自分でさえ本音を言うと、もう愛想が尽きた、というような自分を、神さまは愛想を尽かされないのです。そればかりか、ご自分のいのちを注いでまでも取り戻そうをされるお方なのです。そのお方の胸に飛び込んで、これからは、自分という存在を自分で修復しなければならないということから解放されて、神さまにすっかり委ねてしまうこと。それが自分を失うということであり、悔い改めるということなのです。
自分と神さまと比べてみて、神さまの方が自分のことをよく知っていてくださり、修復、そして再創造することが上手なことは分かりますよね。神さまよりも自分の方がうまくできます、という人はいないでしょう。
いえいえ、時々いるのです。自分の方が神さまよりも修復技術が上であると思い込んでいる人間が。あるいは人間はすべてそうなのかもしれません。自分こそ、自分のことをよく知っていて、ちゃんとコントロールできるのだ、と思い込んでいるのです。それは自分を神としてしまうことにも通じることでしょう。
しかしそれがそうではないということを知らせてくれる時が人生には与えられます。それが罪です。失敗です。罪だけではありません。病気になるとか、重大な人生の危機に直面するということも、自分ではどうしようもないことがある、と言ことを知らされる時ですね。それは危機ですが、危機という言葉が現わしているように、チャンスでもあるのです。その時にしっかりと自分に絶望すること。これが大切です。自分に絶望できるかどうかが、危機をチャンスに変えるかどうかの分かれ道です。
今一つ、先ほど引用した説教に続く言葉を引用しましてみましょう。
「人間が罪を犯す時には、いつでも、言い訳があるものです。それは大抵は、事情がよくなかった、ということであります。もしあのことがなかったら、この罪は犯さなかったであろうに、とか、もし、あの人があの時にあそこにいて、あれをしなかったら、とか、弁解には事欠かないのであります。つまり、罪を犯すのには、それなりの事情があるもので、環境が不十分であることが、罪を犯させるのである、ということなのであります。そこから、今日では、人間は、お互いにかばい合って、だれの罪についても、真の責任を問うことはしないのであります。みな、それ相応に、罪を犯す事情があると思うからであります。『彼らは、手軽にわたしの傷をいやし、平安がないのに「平安、平安」と言っている』(エレミヤ書6・14)というのは、まさにこのことでありましょう。お互いに、浅くしか傷を見ないために、ほんとうにいやされることはないのであります。」
(前掲書、133頁)
「浅くしか傷を見ないために、ほんとうにいやされることはない」。浅くしか傷を見ないことが、危機をチャンスに変えることを不可能にしている、ということでしょう。客観的に見てどんなに浅く見えることであっても、神さまの前に罪の大小があるでしょうか。ダビデは、神さまの前に罪を犯した(詩篇51編)、と告白しました。私たちも、神さまの前に自らの罪を顧みなければならないのです。そうして自らの罪を深く、深く見るのです。そうして自分ではとても修復できるものではないことに気づくのです。自分に絶望するのです。この絶望は、希望につながる一歩です。この説教集には、宗教改革者ルターのことも記されていて、「宗教改革者ルターは、自分の罪に気がついた時、三日間、意識を失って昏倒していたとさえ言われています」とありました。言い訳によって自らが作りだす偽りの平安、偽りの人生の土台ではなく、しっかしと自分に絶望して、もうこんな自分は神さま以外にはどうしようもないということを知って、一切合切を神さまにお委ねしてしまうこと。それが悔い改めなのです。この悔い改めはほんとうのいやしを生み出します。
この説教は、次のような言葉で締め括られています。
「ダビデが、のちに、ある所に参りました時、サウル王の一族のひとりシメイという男が出て来て、ダビデをさんざん罵倒する話が、サムエル記下16章5~14節に出てきます。家来たちは憤慨しましたが、ダビデは、何も言わずに、あれは、主がダビデを呪え、と言われたのだと言って、一層深く、自分を謙らせたというのです。
アレキサンダー・ホワイトという偉い説教者がありましたが、この人がこう言っています。自分は子供のころ、日曜日によく、ダビデがゴリアテを倒した話を読んで喜んだものであったが、大人になってからは、ダビデが、シメイに罵倒されて、謙遜になる話が好きになった。自分の子供たちも、そうなってほしいと思っている、と言うのであります。
ダビデが、真に謙遜になったのは、シメイから侮られた時ではなく、実に、この罪を犯して、預言者ナタンに、叱責させられた時であったのであります。」
(前掲書、138頁)
自らの罪に出会うとき、愛の神さまを前にしてしっかりと自分に絶望するならば、その危機はチャンスとなります。そうしてまことのいやしをいただき、真に謙遜な者へと変えられていきます。悔い改めに生き続ける者は、まことの平安をいただく者となり、謙遜な者へと変えられていくのです。