今はあわれみを受けています

静まりの時 2022年7月8日(金)
第一ペテロ2・9、10

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。
 あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」

(第一ペテロ2・9、10、新改訳2017)

 「あなたがた」、すなわちイエスさまを信じて教会に生きる一人ひとりは、「選ばれた種族」である、とペテロは語りました。教会は選ばれた種族なのです。種族として存在する集団を選ばれたというのではなく、選ばれて集められたことによって生まれた種族である、というのです。普通、種族というと血筋によって存在しているものです。しかし教会は神さまによって選ばれて集められ、そうして一つの共同体となったという存在なのです。
 この神さまによって選ばれた種族である教会、そして教会に生きる一人ひとりは「王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」であると続いて語られます。
 「王である祭司」。この世にあってこの地に仕え、神さまとの間に立ってとりなす存在である。「聖なる国民」。聖とは神のものとされたということですので、次の聖句である「神のものとされた民」と意味は重なっていると思います。教会は、そのようにこの世にあって、世界に仕え、神さまとの間に立ってとりなしをする特別な存在である。教会はそのような神さまご自身の大切な民なのです。

 神さまの民には目的があります。教会は、神さまの栄誉を告げ知らせるために存在しているといいます。神さまの栄誉とは、私たちを「闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった」栄誉です。マラソンランナーが栄誉に輝く時は、マラソン競技において、優秀な成績をおさめたときでしょう。料理の腕前がすごいとか、日曜大工では玄人はだしだ、ということで栄誉を受けることがあるかもしれませんが、やはりマラソンランナーは、マラソンにおいて秀でた力を発揮したときに、その栄誉が称えられるものです。神さまの栄誉、という場合、まことに神さまらしいことをしてくださった、神さまの本領を発揮してくださった、という輝く姿。それは何よりも、私たちを暗闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださったこと。そのように私たちを救って下さったこと。罪と滅びの中にしか生きることのできなかった私たちを、その罪を赦し永遠のいのちに移し替えてくださった。そこにこそ神さまの栄誉があるのです。その栄誉を告げ知らせていく。それが神さまの民として選ばれた目的である、というのです。

 「今はあわれみを受けています」。かつては神の民ではなく、またあわれみを受けたことがありませんでした。しかし今は神の民とされ、神さまからあわれみを受けている。神さまの民、神さまからあわれみを受けている者として、その喜びを宣べ伝えよう、それが救われた目的なのだ、とペテロは語りました。

 私たちは、神さまのあわれみを伝えるには、あまりにも不完全な存在です。しかし「穴のあいた桶」(プレム・ラワット、『穴のあいた桶』)のように、神さまの恵みを喜んで日々を生きているならば、いつの間にか、その道に綺麗な花が咲くのではないでしょうか。

 昨日は遅くに朝に収穫したというトウモロコシをいただきました。就寝の前に歯磨きをしようとしていると、妻が、ちょっとストップ、これからトウモロコシを食べます、と宣言しています。季節なのですね。そういえば娘の小さな家庭菜園のトウモロコシはどうなっただろうか、と思いました。

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皮つきのまま電子レンジでチンし、熱々の皮をむきつつ食べることになりました。