静まりの時 2022年6月25日(土)
ヨブ42・1~6
「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。」
(ヨブ42・5,6、新改訳2017)
理由のない苦しみの中に突き落とされたヨブ。3人の友がやって来てヨブを慰めようとしますが、その言葉はヨブには届きません。彼らの語る言葉は、結局因果応報の原理だったからです。エリフという不思議な人物も登場しますが、同様にヨブに答えることはできませんでした。ヨブはひたすら神さまを求めました。そしてとうとう神さまは「嵐の中」から答えてくださいました(38章~)。
「知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするもの者はだれか」(38・2)
「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それに答えよ」(40・2)
「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ」(40・7)
この神さまのおことばには、ヨブの疑問に直接答える言葉がなにひとつありません。それどころか、神さまの方がヨブに問いかけておられるのです。またヨブの苦しみに同情するような言葉もありません。ただひたすら神さまは、世界を創造したのはわたしである、ということを圧倒的な迫力をもって語られました。そしてそこに明らかにされていることは、ヨブは人間である、神さまに創造された人間に過ぎない、そして神さまが創造した大切な存在である、という主張でした。
驚くべきことにこの言葉にヨブは、完全に納得したのです。ここに信仰の奇跡が起こっています。ヨブは、今までは神さまのことを耳で聞いていた、しかし今は、はっきりと神さまを見た、と告白します。いままでは神さまを知っていたような気持になっていたけれども、今神さまを目の当たりにした、神さまとお出会いした、と喜びを持って告白するのです。その喜びの中で語られたヨブの言葉は次の通りです。
「それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。」(42・6)
「それゆえ、私は自分を退け、塵と灰の上で悔い改めます。」(同、共同訳2018)
本当に神さまに出会ったときにヨブは、悔い改める者となりました。そしてそれは「自分を蔑む」「自分を退ける」者となったということです。本当に神さまに出会った人、本当に悔い改めた人は、自分を退ける人となるのです。私たちは本当に神さまにお出会いし、悔い改めたでしょうか。自分を退ける生き方をしているでしょうか。
教会生活の中で自分を退ける生き方ができているでしょうか。日々の生活の中で自分を退けて歩んでいるでしょうか。私たちはイエスさまにお出会いして、自分を退ける生き方へと招かれたのです。もう自己実現や自己主張、自分を王とする生き方、マウンティングしなければいられない不自由から解放されたのです。
ヨブはかつて問いかけました。「なぜ、苦悩する者に光が、心の病んだ者にいのちが与えられるのか」。先ほども言いましたが神さまはそれには一切答えておられません。これは答えられなかったというよりも、神さまは「沈黙」をもって答えられたというべきでしょう。ヨブはその神さまの沈黙の内にあるお答えに納得するのです。
「人間には不完全にしか把握できないけれども、ちょうど自然界に秩序と調和があるように、しばしば人間には理解できないけれども、道徳の領域には秩序と意味がある」
(ロバート・ゴルディス、『神の人間の書―ヨブ記の研究(上)』、309頁)「ヨブ詩人の究極的なメッセージは明らかである。それは『われわれは知らない』ということだけではなく、『われわれは決して知ることはないであろう』ということである。彼はわれわれに、たとえその模様が部分的にしか知らされなくとも、世界の美しさを『喜ぼう』と呼びかける。暗黒の神秘が四方を囲み、わずかに澄み輝く奇跡が漏れ知らされることを知るだけで十分である。」
(前掲書、311頁)
知らない、ということにあまんじて生きるところに、人間として健やかに生きる道がある、平安があると語るのでしょう。「明日はどんな日か私は知らない。だけど明日を守られるイエスがおられる」と私たちは歌います。