静まりの時 2022年6月24日(金)
詩篇108・1~6
「あなたの愛する者たちが助け出されるよう あなたの右の手で救い私に答えてください。」
(詩篇108・6、新改訳2017)
この詩篇の表題は「歌。ダビデの賛歌」と記されています。ダビデはイスラエルの二代目の王として、その民の責任を担っていました。近隣諸国との戦いに勝つこともあれば負けることもありました。しかしどの戦いも神さまが共にいて、共に戦って下さることを信じていたのだと思います。イスラエルの勝利は、神さまによる勝利でした。
「人による救いはむなしいのです。神にあって私たちは力ある働きをします。神こそが私たちの敵を踏みつけてくださいます。」(12,13)
この時も戦いの中にあったのでしょう。ダビデは神さまが救って下さることを信じて神さまに賛美と祈りを献げたのだと思います。
その賛美の中でダビデは、自らの民であるイスラエルのことを「あなたの愛する者たち」(6)とうたいます。私の愛する者たちとうたってもよいのではないかと思いますが、ダビデにとってイスラエルは、自分の愛する民である前に、神さまの愛されている民であると告白するのです。
私たちは、ダビデのような一つの国の王ではないかもしれません。しかしそれぞれに家庭があり、職場があり、学び舎があり、何らかの形で、責任をいただいている「民」がいるでしょう。キリスト者として遣わされる私たちですから、そこに神さまの愛を届けます。私たちは何らかの形で、その「民」を愛することが求められているのだと思います。その愛が真実なものとなり、その「民」が本当に祝福されるために、まずその民が「あなたの愛する者たち」すなわち神さまに愛されている一人ひとりであることが告白されなければなりません。
私に当てはめるとすれば、教会の兄弟姉妹は、私が愛すべき兄弟姉妹なのですが、その前に、神さまが愛しておられる兄弟姉妹であることが告白されていなければならない、ということです。そうでないと、私の愛が神さま抜きの愛となり、結果真実の愛とならない、本当の祝福を届けることにならないのです。
教会につながる兄弟姉妹は、神さまが愛しておられる一人ひとりです。家族の一人ひとりも、職場や学び舎で出会うすべての人びとも、神さまがまず愛しておられる方々なのです。ですから、私たちはまず、その愛すべき一人ひとりを神さまにゆだねなければなりません。
さてこの詩篇108編は、57編7~11節と60編5~12節によって成り立っていることが分かります。57編の表題には「ダビデがサウルから逃れて洞窟にいたときに」とあり、60編には「ダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰って来て、塩の谷でエドムを一万二千人打ち殺したときに」とあります。
それぞれの時に歌われた歌が、この108編において再び歌われている、ということでしょう。108編も表題には「ダビデの賛歌」とあるものの、作成されたのは捕囚後といわれます。ダビデが歌った詩を、数百年後のイスラエルの民が、合体させて歌っているのです。
私たちが礼拝で歌う賛美歌の歌詞で最も古いものはなんでしょう。新聖歌66番の歌詞がアンブロシウスにさかのぼるとすれば、それは4世紀ということになります。何百年も歌い継がれた賛美を今日も歌っていることになります。それは民族も文化も、さまざまな違いを越えた無数の人たちを励まし続けた賛美を、私たちも歌わせていただいていることになります。