静まりの時 2022年6月20日(月)
エレミヤ12・1~3
「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについて あなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者が みな安らかなのですか。あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。どうか彼らを、屠られる羊のように 引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。」
(エレミヤ12・1~3、新改訳2017)
勧善懲悪をテーマにしたようなドラマを観ていると、観終わった時にスカッとしていたりします。正しい者が幸いを得、悪者の道が滅びるような世界を私たちはどこか期待しています。しかし現実はそうではありません。「悪者の道が栄え、裏切りを働く者が みな安らか」と思えるようなことごとに出会います。全知全能で義なる神さまがおらるならば、どうしてこのようなことが行われるのだろうか、と思うような出来事に出会います。
イスラエルは、神さまの国でした。その神さまの国が、異邦人の国に侵略され、イスラエルの民は捕囚の民となるのです。戦争に負けるのですから、その苦しみは、政治的、経済的な危機です。しかしそれ以上にイスラエルにとっては霊的な危機でもありました。霊的な危機とは、神さまの国であるのになぜこんな目にあうのか、というものでした。
人生の苦しみには、さまざまなものがあります。身体的な苦しみ、精神的な苦しみ、社会的な苦しみ、これに加えて霊的な苦しみがあります。とくにこの霊的な苦しみは、信仰者とって鮮明になります。
預言者エレミヤは神さまの問いかけました。「なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者が みな安らかなのですか」と。
昨日の礼拝にて、聖書の読み方で、同伴的な読み方についてお話ししました。
「詩編にわれわれが学ぶのは、対話の言葉の中に不安を持ち込むことこそ、助けを約束するということである。そして、それこそが、不安と付き合うただひとつの適切な言葉なのである」
(『魂への配慮の歴史 第1巻 聖書の牧会者たち』、インゴ・バルダーマン、「詩編」、日本基督教団出版局、2000年、61頁)
これは詩篇についての言葉ではありますが、聖書全体、特に詩文のところに当てはまるのではないかと思います。不安な気持ちをかかえて生きる私たちが、その不安と付き合って生きるためには、対話が必要である、その対話の相手は聖書である、聖書は私たちが口にすることができなくなっている言葉を代弁し解放してくれる、その言葉に出会うことによって、私たちの心が開かれ、守られ、支えられる、ということでしょう。
今日のエレミヤ書の聖句でいえば「なぜ・・・」と神さまに訴える、あるいは祈ることによって、私たちはその疑問、謎とともに生きることができるようになる、ということでしょう。疑問に対する答えはないかもしれません。しかしそもそも人生に起こる不可解な出来事は天国においてしか解決できないことも多いのですから、疑問をかかえて生きることが人生でしょう。自分一人では生き切ることの出来ない人生でしょう。聖書は私たちに同伴し、私たちが「なぜ」と問うときに、「そやね」と応えてくれるのです。そうして私たちは何とか生きていくことができるようになります。そこでは呪いの言葉さえも可能となります。
いのちの言葉であるイエスさまは、今日も私たちと共に歩んでくださいます。こころを神さまに向けているならば、すべての場所が祈りの場所となります。ありのままの「私」とともに歩むことをイエスさまは喜びとしてくださいます。
先日長女一家がBBQに招いてくれて近くのキャンプ場に出かけました。BBQの時はいつもですが「はい、炭とコンロの準備はおじいちゃんのしごと」と娘が采配を振るいます。興味しんしんでじゃまをする孫たちを抑え込みながら、炭に火が回るのに苦労します。ようやく準備がととのい食事となりましたが、こちらは無事炭に火が回りホッとしています。そこで娘からの一言。「よかったね。BBQができて」。この意味は、昨年の緊急入院の時には、もう二度とこのようなことはできないのではないか、との予測があったのですが、こうして快復してできるようになった、感謝、ということのようでした。
伝道者となって30年。主にお仕えしてここまで来たのですが、どうして病気になったのか。なぜといく度も問うことでした。不摂生というのならば私以上に不摂生の人はいるでしょうし、ストレスが引き金となってプラークが破裂したということでも、もっとストレスの多い仕事をしている人はおられます。この「なぜ」にはいわゆる答えがないのです。
しかしなぜに対する答えはありませんでしたが、病いの意味はあったように思います。まずゆっくりしか話せないようになりました(笑)。もちろん話そうと思えば早口が可能ですが、そうすると後がしんどいのです。それで用心もあってゆっくり話すようになり、これは結果的に、よく考えて話すといことを、少し可能とさせてくれます。
また話すことだけではなく、行動もちょっとスピードが落ちました。ダッシュができません。信号機が点滅すれば、以前なら駆け足で渡った横断歩道も待つようになりました。これが自動車の運転にもなぜが影響がでて、あまりスピードを出さなくなりました。気が付けば、私の運転する車の後に列ができていたりします。不注意がなくなったわけではありませんが、信号機のない歩道のわきで待っている歩行者に敏感になりましたね。
こんな変化を感じると意味があったことを思います。その中で最大のことですが、それは、自分も死ぬものである、ということが少し分かった、ということがあります。人間は死ぬものであるということは分かっていました。しかし自分が死ぬものであるということは、あんまり分かっていなかったと思います。自分だけは死なないとどこか思っているところがありましたが、いまはいつか必ず死ぬものである、ということを日々思うようになりました。メメントモリ、は大切なことですね。
さまざまなことで限界が来ていて、しずかに生きる日を望んだのですが、役員の方々を中心に教会の皆さんが一所懸命祈っていてくださり、なんとか日曜日の奉仕をさせていただいています。本当に感謝です。