逃れの町

静まりの時 2022年6月18日(土)
民数記35・9~15

「主はモーセに告げられた。
『イスラエルの子らに告げ、彼らに言え。ヨルダン川を渡ってカナンの地に入るとき、あなたがたは町々を定めて、自分たちのために逃れの町とし、誤って人を打ち殺してしまった殺人者がそこに逃れることができるようにしなければならない。・・・」
(民数記35・9~15、新改訳2017)

「目には目を、歯には歯を・・・」(出エジプト21・24、レビ24・20、申命記19・21)。

 冒された犯罪に対して罰を与えることは、古代社会だけではなく現代も同様のことが行われます。さすがに目を傷つけたならば、傷つけた者の目を傷つけるということはないと思いますが、傷つけた者にそれなりの賠償を求めたり、法に触れることがあったとすれば罰を与えるということが行われます。
 目には目をなどというと、古代社会は残酷だなあ、と思うところですが、これは「限定報復」であると説明されます。人間は、自らの目を傷つけられたら、復讐心に燃えその傷つけた者のいのちをも奪おうとするものなので、目を傷つけられたら、目だけを傷つけ返しなさい、というのです。しかしそれでは復讐心が満足しないような気がします。きっとこれは復讐心を満足させるためのルールではなく「社会正義」を守るためのルールであったのかなと想像します。日本では時代劇を見ると「仇討」ということがあったようですが、これには複雑なルールがあったようですね。そこにも、単に復讐心を満足させるということ以上に社会の秩序を守るということがあったのかもしれません。

 人権感覚の低い社会では、人のいのちも軽々しく扱われます。人のいのちが大切に扱われるためには、ルールが必要です。そのルールが守られるためには、なにがしかの権力、力が必要となります。ルールを守らないと罰が与えられるという恐怖の力ではなく、社会秩序を守るという理念や希望による力によってルールが守られる、というのは良い感じですね。自由な社会に近いように思います。個人の自由も大切ですが、社会秩序を守るという理念や希望を育てる教育も大切なことなのだと思います。

 さて犯された罪に対して適切な罰が与えられるというルールに加えて、今日の聖書の個所が語っているのは「逃れの町」の設置についてです。いのちにはいのちをもって償うというルールは大切なことだったのですが、神さまは「誤って人を打ち殺してしまった殺人者」つまり「過失」によって人を死に至らしめた場合は、他の殺人事件とは違う対応をしなさい、と言われました。殺人における動機の如何によって罰を変えなさい、と言われたのです。これも古代の世界においては驚くべき先進的な人権感覚ではないかと思います。

 「逃れの町」のルールについては22節以降にさらに詳しく書かれています。「敵意もなく」「悪意なしに」「よく見ないで」他者を死に至らしめることになった場合に「会衆は、その殺人者を血の復讐をする者の手から救い出し、彼を逃げ込んだその逃れの町に帰してやらなければならない」のです。その殺人をすることになった者は「聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない」、またその殺人をすることになった者が「自分が逃げ込んだ逃れの町の境界から出て行って」復讐する者に殺されてもそれは仕方がない、と続きます。

 過失致死の場合は、その犯人に対して「赦し」が語られているようにも読めますが、この逃れの町の目的は「わたし自身がそのただ中に宿る土地を汚してはならない。主であるわたしが、イスラエルの子らのただ中に宿るからである」との言葉に明らかにされています。つまり、神さまが宿っておられるのだから、神さまが宿っておられる土地らしく義を守ってちゃんと管理しなさい、ということですね。人間のいたずらな復讐心を満足させるようなさばきをしてはならない、ということです。

 そもそも過失による殺人とはいうのですが、故意か過失かはどう判断するのでしょうか。現代において、例えば交通事故によって人を死なせた場合は過失致死が考えられます。しかし、「過失致死」でググるといくつかの弁護士のサイトに出ていましたが、道路上で高齢者がふらふらと自転車をこいでいる横をすり抜けようとするときに、その自転車のすぐ横を猛スピードで通過し、そのとき自転車が転倒し事故が起きて死なせることになったという場合は、結果予見義務違反や回避可能性というものが問われることになるそうです。殺人者が、いや~そんなことになるとは知らんかったんや~、と言えば単純に逃れの町に行けるのかというと、どうなのでしょう。そもそも逃れの町に行くということは、ほぼ生涯にわたって、家族と別れて生きるということで、そこから出てしまうと殺される可能性があるということですから、それ自体さばきのような気もします。

 合法的に殺人が認められている戦争や死刑制度においてさえ、人を殺したことの苛責に苦しみPTSDを発症するのが人間です。人間はそもそも人を殺すようには、神さまは造られなかったということですね。人を殺すということ自体が人間にとっては自らを滅ぼすような異常事態なのです。
 逃れの町は、復讐者から過失によって殺人を犯すことになった者を守ることになるのだと思いますが、それは人を殺したことの苛責に苦しむ者に、自らの苛責と向き合う場所を備えたことになったのかもしれません。

 イエスさまは山上の説教の中で次のように語られました。

「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。・・・また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。」
(マタイ5・38~48)

 神さまの完全さは、罪びとに正しい罰を与えることにおいて成り立たせる完全さではなく、罪びとさえも赦すことで成り立たせる完全さです。いくらルール通りにさばきが行われても、敵さえも愛する愛と赦しがなければ完全ではない、ということでしょう。イエスさまはこのような愛と赦しのある完全さに生きるように、私たちを招かれました。

 しかしこの「赦し」が成り立つためには、その前提として「赦されなければならない事」が、明らかにされ認知される必要があるでしょう。赦されなければならないような事実はなかったのだ、とされる、あるいはそもそもなにもなかったのだ、ということでは、赦しということは成り立ちません。またそれをゆるしとするとすれば、それは本当の赦しではありません。それは許し、つまり許可にもつながることとになり、安心安全な将来をひらくことになりません。
 この「赦されなければならない事」は、罪を犯した者にとっては「決して赦されることはない」「赦されえぬもの」であると認知されている必要がある、とジャック・デリダが語っていたとかいなかったとか・・・(適当なことを言っています)。意味は、これくらいは赦されるだろう、誰もがやっていることではないか、ぐらいの認知の仕方で、もし悔い改めということがなされたとしても、そこで語られる赦しは完全なものではない、あるいはそれは赦しではないということです。
 また赦しというのは、悔い改めによって取り引きされて与えられるものではない、ということです。悔い改めたら赦される、という言葉はこの点において大いに誤解を与えてしまう言葉となっているようです。「自分は赦されるはずのない者である」とうずくまるしかない者に、自分とは全く違う存在から一方的に語られる言葉。それが赦しである、ということです。
 イエスさまが愛と赦しの完全さに生きるように、私たちを招かれるために、イエスさまご自身は十字架に架かられました。なかったことにされるどころか、私たちの罪の重たさを、神さまの死、によって明らかにされたのです。私たちはこの十字架上でささげられた神さまのいのちの重たさをどれだけ分かっているだろうか、あるいは分かることができるだろうか、と思います。私の罪は、神さまのいのちがささげられなければならないほど重たいもの、私自身も知ることができないほどに深いものなのです。イエスさまだけがその重たさを知っておられます。私たちが、主の日の礼拝をささげるとき、この十字架の重たさを学んでいるのだと思います。決して人間にはささげることの出来ない主の十字架に出会い、その重たさを知ることによってのみ、愛と赦しの完全さに生きる者とされるのだと思います。

「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と主は言われましたが、きっと私たちは「私は自分の敵を愛することができないし、ゆるすなどということもできない。迫害する者ために祈ることなどとんでもない」というのが実情かもしれません。しかし「イエスさまがゆるしていてくださることは信じている。私さえもゆるしてくださったのだから」と、自らの赦しを感謝することはできるかもしれません。