私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました

静まりの時 2022年5月31日(火)
ローマ3・27~31

「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。どのような種類の律法によってでしょうか。行いの律法でしょうか。いいえ、信仰の律法によってです。・・・それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、律法を確立することになります。」
(ローマ3・27,31、新改訳2017)

 「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか」。
 パウロは「それは取り除かれました」といいます。誇りが取り除かれた、誇りなど何もない、まったくない、それがイエスさまを信じる者の生き方だ、それが信仰に生きるということだ、というのです。
 実際、人間はなんらかの誇りがなければ生きていけません。プライド、と言ってもいいと思いますが、それにしがみつきながら生きています。だれかにプライドが傷つけられると、怒りに打ち震えたり、がっかりと意気消沈してしまったり。それが人間です。
 ユダヤの人たちも、律法にしがみついて生きていました。あるいは自分たちが神の民、選民であるということを誇りにしていました。律法ではなく、選民の象徴である割礼ではなく、信仰によって救われる、などと言いだしたら、私たちの誇りはどうなるのだ、ということでしょう。
 ですから信仰によって生きるということは、結局、私たちがいたずらにしがみついている「誇り」が取り去られるということなのです。
 学歴、経歴、職業、経済的な豊かさ、知識の深さ、人柄の良さ、行いの豊かさ、などなど。そういうものは、教会に一歩足を踏み入れたならば、もう取り去られてしまうのです。あるいは取り去っていただくのです。もし教会の中で、私はなになに大学を出ています、とか、大企業に勤めています、とか、経済的には誰よりも引けを取りません、とか、さまざまな資格を手にしています、とか、世間では良い人で通っています、このような良いことをしてきました、ということは、まったく関係がない、あるいはそういうことはむしろ余計なことである、ということになります。
 信仰生活が始まっても、誇りがなければ生きていけないという人間の性(さが)は、なかなか死なないものです。どれだけ聖書の知識を持っているか、毎日どれだけ祈っているか、教会の奉仕を頑張ってやっている・・・。伝道者となるとことはもっと深刻で、私は何々神学校を出ました、どれだけ多くの勉強をしています、とか、どのような本を書き著しました、私の奉仕によって教会が大きくなりました、会堂を立てました、今年は受洗者が何人です、私の祈りによって信徒は癒されました、などなど。もう情けないというか、恥ずかしいというか、そういう状態が、たとえ表面上はなくても、心の底に渦巻いていることが否定しがたいことを想像します。
 しかしパウロは、そういう一切の「誇り」は取り去られた、というのです。

 では私たちは、一切の誇りが取り去られて、このさきどのように生きていけばいいのでしょうか。パウロはコリントの手紙の中で次のように語っています。

「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(第一コリント1・18)

そして

「・・・しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。・・・私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」
(第二コリント12・5~9)

 もし、信仰者の生きる力の源泉は十字架にある、もし誇るとすれば、自らの弱さを誇る、といいました。律法ではなく、信仰によって義とされる者は、あらゆる誇りを取り去られて、ただイエスさまの十字架から力をいただき、自分の弱さを誇る者になるのだ、というのです。

 ところで27節のなかの「律法」と31節の最後の文章に出てくる「律法」とは、その意味内容が違います。原文では同じ単語を使っていますので、いわゆる原文に忠実な新改訳系は、同じ日本語の単語に訳しだすのですが、文脈を考えると意味は明らかに違うので、多くの聖書では、27節の方は「法則(あるいは原理)」、31節の方は「律法」と訳しています。
 「律法」が与えられ、それを実行するということを「誇り」として生きるといった「法則」から私たちは自由にされた、では、「律法」そのものはもう無意味なものとなってしまったのか、いいえそんなことはない、私たちが律法を行うということを「誇り」とする「法則」ではなく、ただ信仰の「法則」によって「律法」を確立することができるのだ、というのです。律法を行うということを誇りとして生きてしまっていたので、律法を大きく傷つけてしまった、本来の律法の輝きを失わせてしまった、信仰によって、誇りは取り去られた、だから信仰によって生きる者は、律法を確立することになる。それは十字架を頼りとして、自らの弱さを誇ることによって、確立することができるのだ、というのです。

 三浦綾子さんは、何かの著書の中で、キリスト者はカッコ悪い生き方を選択する、というような言葉を記しておられたような・・・。自分のプライドなど、まあ言えばどうでもよいのです。ただ十字架の主イエスさまをお頼りして、自らの弱さを誇りつつ生きていけばよいのです。この「誇る」という言葉は、原文のギリシャ語では「喜ぶ」という意味を持っています。つまり自分の弱さを今日も喜んで生きていけばいいということですね。

竹森先生の講解説教集のこの個所の締めくくりにエレミヤ書の言葉が引用されていました。

「──主はこう言われる──知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。──主のことば。」(エレミヤ書9・23,24)