神の栄光

静まりの時 2022年5月30日(月)
ローマ3・21~26

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」
(ローマ3・23,24、新改訳2017)

 「すべての人は罪を犯して」。ここに差別や区別はありません。すべての人が罪びとなのです。すべての人が罪びとの頭なのです。自分の罪は人と比べて少し軽い、ということもできません。また逆に自分だけが人と比べて重たい、ということも考える必要がありません。人のことを考えている余裕はないのです。とにかく自分が神さまの前に罪びとの頭として立っているのです。
 「神の栄光を受けることができず」。神さまの栄光、神さまの輝きを自分のものとして生きることができなくなりました。本来は、エデンの園で何一つ不自由のない生活をしていたのです。しかし自ら犯した罪のために、エデンの園から出てしまうことになりました。神さまが追放された、という言い方もできるでしょう。しかしそれは神さまが原因ではありません。神さまの責任ではありません。人間の責任なのです。
 しかし神さまは、そのような人間をあわれんでくださいました。恵みを与えてくださいました。ひとり子イエス・キリストをこの地に遣わし、十字架と復活の贖いの御業を成し遂げてくださいました。この「キリスト・イエスによる贖いを通して」私たちは「価なし」に「義と認められる」のです。
 この「価なしに」ということですが、25節には「信仰によって受けるべき」、26節には「イエスを信じる者を義と認める方であることを・・・」と続ています。信じるということは、自分において起こる価なしの出来事、としてとらえなければならないようです。つまり「信じる」という「価」によって救われるのではなく、信じるということそのものも「価なし」のことなのだ、ということです。ちょっとややこしいですね。

 しかしこうして神さまに義と認められる、ということは、本当に素晴らしいことです。この地上で、どんなに立派に生きたとしても、私たちはみな罪びとであり、最終的にさばかれる者だったのです。そこでさばきをなさるお方は神さまご自身です。しかしその神さまが、もはや私たちを、私たちの罪によってはさばかない、と語って下さったのです。あなたも「義」である、と認めてくださったのです。こうして救われ、再び神さまの栄光を受ける者、神さまのご栄光を受けて新しく生きる者となりました。

 栄光を受ける、ということは、私たちにとって幸いなことなのですが、じつは私たちが神さまの栄光を受けることをだれよりも期待し、また望み、また喜んでおられるのは、神さまご自身なのです。

「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」(ヨハネ15・8)

 私たちが多くの実を結ぶ、そうしてイエスさまの弟子となることによって、神さまご自身が栄光をお受けになるというのです。この多くの実を結ぶ、イエスさまの弟子となる、ということは、何よりも、罪人であった私たち自身が、イエスさまの十字架と復活の贖いによって救われる、再び栄光を受ける者となるということでしょう。

「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
 人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。
 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」(ピリピ2・6~11)

 ここにパウロは、私たちが救われたのは、父なる神さまに栄光を帰すためである、と語っています。救われた目的は、自分が幸せになるためでも、世界が平和になるためでもなく、ひたすら神さまに栄光が帰されるためである、というのです。私が神さまの栄光を受けることによって、神さまご自身が栄光を受けられる、というのです。

 竹森先生は、このローマ書3章23節の講解説教の中で次のように語っておられます。

「神と交わるのは、その神に対して、真実に栄光を帰するということになると思うのです。・・・栄光を受ける者こそ、真に神に栄光を帰しうる者である、と申しました。それならば、神の栄光を受けて喜んでいる生活は、神を礼拝することであることは、自ら明らかなことであります。カルヴァンが、神の栄光のために、ということを強調したことは、有名な話であります。それを、心ない人々は、正義のため、善のために働くことである、と思っているようであります。しかし、神の栄光のために生きるとは、まず、神を礼拝することであり、神の栄光を受けることなくしては、正しい礼拝はないことを、深く記憶すべきであります。」(竹森満佐一、『ローマ書講解説教Ⅰ』、1962、294頁)

 この「神の栄光のために生きるとは、まず、神を礼拝すること」。そして「神の栄光を受けることなくしては、正しい礼拝はない」は、心に深く響いてきます。

 昨日も幸いな礼拝がささげられました。静かな奏楽のうちに黙祷の時がもたれます。私はこの黙祷の時が大好きです。さまざまな雑念からイエスさまに集中していきます。またともに賛美を歌います。自分一人で賛美することも嫌いではないですが、やはり皆さんの一つひとつの声が響き合い、一つとなって神さまを賛美する、その歌声に自分の声も合わせさせていただいている、さらには、この賛美歌は、昨日今日つくられた賛美ではなく、長く歴史にわたって歌い継がれ、信仰者を励まし支えてきた賛美歌ですから、すでに天に帰られた先輩のキリスト者たちと共に賛美をしている、そんな喜びがあふれてきます。司会者の祈りに耳をかたむけます。たとえ自分の心に祈りの言葉の備えがなくても、司会者の祈りの言葉に導かれていきます。そして主の祈り。イエスさまが教えてくださった祈りをともに祈ります。もう数えきれないほどの人が、さまざまな教派を超えて祈り継がれてきた祈りを、ともに祈るのです。聖書の交読をします。聖書の言葉を、司会者と礼拝者が、呼応するように読み上げるのです。私はこの交読の時も大好きなのです。言葉が無秩序にではなく、信仰のピンポンのラリー(?)ように聖書の言葉が読まれ、会堂に飛翔していきます。また説教箇所の聖書朗読に耳をかたむけます。聖書は自分で読むことも大切ですが、読まれている言葉として「聞く」ということ、それを通して、神さまを礼拝するのです。説教の時は、私は30分を目標にお話しします。礼拝は講演会ではないので、他のプログラムととともに、この説教の時も、イエスさまを礼拝しているのです。会衆は説教を「聴く」ということを通して、説教者は説教を「語る」ということを通してイエスさまを礼拝しているのです。説教後は応答の祈り、賛美、献金感謝の祈り、頌栄、祝祷と続き、奏楽のうちに黙祷をもって一区切りとなります。そののち報告がありますが、この報告も礼拝の大切な要素であり、一部です。そうして神さまの祝福の中に新しい一週間に出発します。ハレルヤ!
 毎週同じことの繰り返しです。しかしこの同じことの繰り返しが私はうれしいのです。ここに行けばイエスさまに会える、常に変わらずイエスさまと交わり、イエスさまを礼拝し、そうして神さまに栄光を帰す、神さまご自身が栄光をお受けになられる。私たちが救われたのは、すなわち栄光を再び受ける者となったのは、ひたすらこのためなのです。

 ごくたまにクラッシックのコンサートに出かけたことがありました。開始時間前にすでに会場には人が着席しています。開始とともに、重たいドアは閉められ、演奏中は出入りができません。咳をするのもはばかれるような沈黙の中に演奏が始まります。終了の時がまた難しい。終了の瞬間を見て「ブラボー」などと叫ぶのを趣味にしている人がいます(笑)。しかしそれも演奏に集中していなければできないことでしょう。余韻のうちにそれぞれ岐路につきます。礼拝は、このようなコンサートではありませんので、ここまで緊張や管理をする必要はないと心得ています。しかし私たちが栄光を受けた、すなわち救われた最大の目的が礼拝であるならば、そしてそこに本当に神さまがおられると信じているならば、コンサート以上のものであるのかもしれません。

 昨日の夜に荷物をとりに、すこし娘家族の家に寄ることになったのですが、裏に流れている小さな川に、ホタルが飛ぶのを見ることができました。私が見たのは一匹だけだったのですが、はかなくも力強く浮遊する光の点に、そこにもいのちがあることを告げているようで、嬉しくなりました。みなさんの近くにもホタルを見ることの出来る場所がありますか。