静まりの時 2022年5月28日(土)
ヘブル11:17~19
「信仰によって、アブラハムは試みを受けたときにイサクを献げました。約束を受けていた彼が、自分のただひとりの子を献げようとしたのです。神はアブラハムに『イサクにあって、あなたの子孫が起こされる』と言われましたが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。それで彼は、比喩的に言えば、イサクを死者の中から取り戻したのです。」
(ヘブル11・17~19、新改訳2017)
「それで彼は、イサクを返してもらいました。これは復活を象徴しています。」(共同訳2018)
アブラハムは、力づくでイサクを取り戻したのではありません。むしろイサクを献げたのです。しかしその献げるという信仰が、イサクを取り戻すことになった。それは神さまから返していただいたのだ、ということですね。献げることが、返してもらうことを生み出す。献げなければ返ってこない。聖書の真理のような気がしてきます。
アブラハムにとっては、イサクは大切な存在でした。自分にとっての独り子であるという大切さもありました。しかしそれだけではありません。イサクの存在は、アブラハムの子孫繁栄のカギであり、それ自体、神さまのお約束だったのです。つまりここで献げたのは、最も大切なものを献げた、ということだけではなく、神さまのお約束そのものも献げた、手から離した、ということなのです。まったく理屈に合わない、不可解なことなのです。その理屈に合わない、不可解なことを、アブラハムは、神さまを信じる、神さまを信頼するということで、すべて受け入れたのです。
アブラハムが、神さまを信じた、ということの中身は、
「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできると考えました。」
さまざまな奇跡が聖書に記されています。その中で「死者の復活」は、最大の奇跡なのだと思います。死者の復活を信じることができるならば、その他の奇跡は、すんなりとすべて信じることができるのではないかと思います。
アブラハムは、全く不可解な神さまのお申し出に、ただ信仰をもって応えました。その信仰は、イサクを献げるという行動において現されました。そのときのアブラハムの信仰とは「神さまは人を死者の中からよみがえらせることもできると考えた」というものだったのです。死者の復活を信じる信仰、それが、アブラハムにおいて明らかにされた「神さまに喜ばれる信仰である」(11・6)と語るのだと思います。
さて、上記のように不可解なことをも神さまへの信頼をもって受け入れていくこと。そこに聖書の語る信仰がある、神さまはそのような信仰を私たちにお求めになっておられる、それは、さらにどのようなことを意味しているのでしょうか。
幾日か前にローマ4章25節の「私たちが義と認められるために、よみがえられました」という言葉を思い巡らせました。復活を信じることによって、義と認められる、というのです。
私たちが神さまから義と認められるためには、主の復活を信じなければならない、というのです。羊飼いのもとから迷い出た羊を、自らが傷つきながらも探し求めて見つけ出すように、神さまは、私たちを探し求め、見いだしてくださいます。羊は、見いだされた喜びのうちに、羊飼いの肩に担がれて帰っていきます。それが救いであり、信仰生活である、と聖書は語ります。放蕩の限りを尽くした息子が、もう一度戻ってきてくれることを、日々待ち望む父の姿の中に、神さまの愛が明らかにされていると聖書は語ります。
しかし、この父は、どうして放蕩をしている息子のところに行って、首根っこをつかまえて無理やりにでも連れ帰らなかったのか。全能の神であるならば、そのようなことも簡単なことなのではないか。あるいは、迷い出た羊、というけれども、どうして迷い出る瞬間にストップをかけなかったのか。この羊飼いは、羊が迷い出るときに、ぼーっとしていたのか。あるいは全能の神が愛の神ならば、迷い出ていても、放蕩の限りを尽くしながら遠くで暮らしていても、しずかに見守っていればよかったのではないか。さらには、とってはならないと命じた木の実から取って食べても、ゆるして受けれ、そのままエデンでの生活を保障してもよかったのではないか。神さまが愛ならば、そうするのが当たり前ではないか。そのままを、そのままの状態で受け入れるのがキリスト教であり教会のあるべき姿なのではないか、と。
しかし私たちの神さまは、そうはなさらなかったのです。羊を迷い出るままにされたのです。弟息子は、その先で放蕩の限りを尽くすことを知りつつ送り出されたのです。放蕩息子が帰って来る時は、放蕩息子自身がそれを決意しなければならない、悔い改めなければ帰って来ることにならないことを、神さまはご存じなのです。そして神さまのたった一つのお申し出さえ、守ろうとしない人類を、私たちの神さまは、そのままでエデンの園に住むことをお許しにならなかったのです。
このような私であっても、神さまは愛し、赦し、受け入れてくださっている。それは真理です。しかしその真理を受け入れるためには、羊飼いの生に乗る羊のように従順で、帰ってきた放蕩息子が「使用人の一人にしていただこう」との謙遜のなかに生きようとすることが不可欠なのですね。この神さまの愛を本当に受け入れるためには、自らが「心の貧しい者」として、存在していなければならないのです。
自らが心の貧しい者となることができるであろうか。そんなことは不可能なのではないか。いえ、復活を信じる信仰に生きるのですから、私さえも復活することができる。自分では心貧しい者となることが不可能かもしれませんが、神さまならばそうしてくださる、と信じて、神さまの御前にひざまずいて生きる者となるのです。そこに、羊飼いの背に乗る羊の平安、父のもとに帰った放蕩息子の安心が生まれるのです。