静まりの時 2022年5月17日(火)
ホセア14・1~9
「知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟れ。悟りのある者はだれか。その人はそれらのことをよく知れ。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、背く者はこれにつまずく。」
(ホセア14・9、新改訳2017)
「行って、姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ・・・」(1・2)というショッキングで謎めいた言葉で始まるホセア書。決して姦淫という罪を許容せよと言われているわけではまったくありません。それは、まことの神さまを離れ偶像礼拝をするイスラエルを、それでも愛そうとされる神さまの御姿を現しています。
ホセア書での偶像礼拝は、文字通り異教の神々への偶像礼拝行為を指していますが、同時に、隣国の侵入、侵略に際して、まことの神さまへの信頼を捨て、異国の力を借りて、その戦いに勝利しようとした当時の安全保障における国策を批判的にあらわしています。それはまた、私たちが日常生活の中で神さま以外のものに頼ろうとする在り方、への反省を促す言葉でもあります。
神さまは、そのような神さま以外のものに頼ろうとする私たちを、決して見捨てることなく「あなたの神、主に立ち返れ」(1)と語り続けていてくださるのです。
「あなたは自分の不義につまずいたのだ」(1)。
「つまずき」とは一体何でしょう。「つまずき」はどうして起こるのでしょうか。教会でも、牧師につまずいた、信仰につまずいた、聖書につまずいた、という言葉が語られることがあります。確かに牧師の言動に問題があり、信仰の内容に疑問が起こり、聖書の記述を信じることができなかったりと、それぞれに「つまずき」が起こることは想像できないわけではありません。イエスさまもあるところで「わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです」(マタイ18・6)と言っておられます。
しかしここで、つまずき、が起こったのは、誰彼のせいではない、つまずきが起こったのは、それは「自分の不義」によるものなのだ、と言われています。イエスさまも「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」(マタイ11・6)と言っておられますから、イエスさまにまでもつまずいてしまうのが人間である、ということでしょう。「不義」とは「正しくない」ということですが、それは何よりも、神さまのとの関係の正しさに決定的な問題が起こっている、ということでしょう。
結局、つまずいた、ということの中には、つまずかせたものの問題もさることながら、つまずいてしまう自分自身の中に起こっている問題こそ、解決されなければならないことなのです。
つまずきを感じたときに、少し心を静めて考えてみるといいのだと思います。あの人だったらどう考えるだろうか、この人だったらどういう考え方をするだろうか、私が今考えている考え方は果たして健やかな考え方だろうか、と。そして何よりも、イエスさまだったらどうのようにお考えになり、どのような言動をされるだろうか、と。
もしかしたら、そこに自分自身の神さまとの関係に起こっているかもしれない問題が見えてくるかもしれません。
「主の道は平らだ」。主の道は平らないのです。「正しい者はこれを歩み」。主との関係が正しい者は、この平らな道を歩み続けます。しかし「背く者はこれにつまずく」。主との関係が壊れていまっていては、どんなに平らな道にもつまずくのです。畳のへりにつまずくのは、スリ足になっていて足があがっていないからですね。
もちろん誰かをつまずかせないように、細心の注意を払うことも大切なことだと思います。しかしそもそも周りの人のことばかり考えて生きているわけにはいきません。また空気など読まなくて良いのではないかと思います。人からどう思われているだろうか、ということばかり考えて、変にぎこちない生き方となり、人間関係を不健康なものにするということも起こります。
イエスさまだけを見ていればいいのだと思います。イエスさまは「わたしは彼らの背信を癒やし、喜びをもって彼らを愛する。」(4)と言って下さっているのですから。
「喜びをもって愛する」という言葉は面白い言葉ですね。どこに、悲しみをもって愛する、怒りをもって愛する、ということがあるでしょう。愛するといことは、そこにすでに喜びがあるはずです。しかしわざわざ「喜び」をもって、と言われているといことは、とにかく最上級の愛をかたむけてくださる、ということでしょう。すばらしいことです。
小学生の時、夏休みに親せきの家に遊びに行った際、スーパーカブの後ろに乗せてもらったことがありました。小学生が後ろの席に乗っているのだからもう少し緩やかに運転してほしいものでしたが、お構いなく猛スピードで野山を駆け巡られました。私はとにかく荷台としか見えない後ろの座席で、運転するおじさんの背中に必死でしがみついていました。親せきの家に帰ったときにはほっとしました。もう二度とこのおじさんには乗せてもらわないぞと思いました。今でも思い出しますので、そうとう恐ろしかったのだと思います。
私たちは時に山道坂道を疾走する人生の道を必死で生きているのですから、イエスさまの背中にしがみついているだけで精一杯です。よそ見している余裕はありません。振り落とされてしまいます(笑)。ひたすらイエスさまの愛の中に、その瞬間瞬間を生きていきたいと思います。イエスさまは、あのおじさんのように「お構いなく」ではなく、しっかりと私をその手の中に包み込んでいてくださいます。
昨日は久しぶりに大阪にある日本国際飢餓対策機構に電話をして、今は責任者となっておられる兄弟とお話しをしました。教会のある方から海外への支援をしたのだからどうすればよいのだろうか、との問い合わせをいただいたからです。ザンビアへのコンテナ便があるので、それに一緒に送りましょう、と引き受けていただきました。
その方も部位は違いますが、数年前に梗塞を起こして倒れておられます。しばらく健康談義をしました。はやりウォーキングは大切ですな、みたいな感じです。15年以上前ですが、この団体の評議員をさせていただいていました。毎年、総会ではホテルに缶詰めで会議が行われるのですが、食事の様子などを振り返ると健康には留意されている方でしたので、きっと激務が続いていたのだろうなと想像していました。快復されて、再びフル回転で世界の飢餓対策に邁進しておられのを見ると、励まされます。