だれでも渇いているなら

静まりの時 2022年5月11日(水)
ヨハネ7・37~39

「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」

(ヨハネ7・37~39、新改訳2017)

 この祭りとは、仮庵(仮小屋)の祭りのことで、出エジプトを記念して行われるユダヤ最大級のお祭りとのこと。祭りの中では、水が用いられ、参加者は自分たちが生かされていることを喜びます。その祭りの「終わりの大いなる日」、すなわち自分たちが生かされていることを、あふれる水によってお祝いしているその最高潮の時に、イエスさまは「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われました。文字どおりの水で潤いの中にある人びとに向かって「だれでも渇いているなら」と言われたのです。イエスさまは、豊かに潤う人びとの中に激しい渇きを見抜いておられたということでしょう。
 魂が渇いている、それが私たちの状況なのです。その渇きを満たすことのできるお方はイエスさまだけなのです。イエスさまのところに来て「飲む」、すなわち「イエスさまを信じる」こと。その信仰だけが私たちの魂の渇きをいやすものです。
 イエスさまへの信仰により魂の渇きがいやされた者は「その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と言われました。自分がいやされるだけでなく、人をいやす者となる、ということでしょう。

 このことは「ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである」とヨハネは説明を加えています。
 イエスさまがお受けになられる栄光とは、十字架と復活のことでしょう。あるいは昇天のことでしょう。「下っていなかった」は直訳では「なかった」。このイエスさまのおことばは、十字架の御業の前のことなので、そしてその後の復活、昇天、そして使徒2章に記されている聖霊降臨がまだです。使徒2章に記されている聖霊降臨とは、教会が生まれた、ということですから、教会が誕生する前の事だった、という説明がわざわざなされているということになります。

 どうしてこのような説明がなされているのか。それは十字架の前と後とで時代の区分をしているとも読めます。しかしそれ以上に、教会が生まれてからの教会の使命が強調されているように思います。イエスさまを信じていのちの水に潤され、そうして潤された者はまた世界を潤す者として遣わされていく、ということですが、それはまたイエスさまの十字架と復活を信じる信仰によって生きる教会は、世界をいやす存在である、世界の魂を潤す存在である。そのような宣教に遣わされる教会の姿が強調されているように思います。
 信仰は個人的な問題なので、教会という組織はあまり重要ではない、ということではありません。教会はイエスさまのお身体なのです。ですから教会に来て、いのちの水に出会い潤されるのです。そしてまたいのちの水に潤された教会が世界を潤すために遣わされていくのです。