静まりの時 2022年4月20日(水)
第一コリント15・50~58
「・・・死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。・・・」
(第一コリント15・56,57、新改訳2017)
「死のとげは罪である」。死にはとげがあって、そのとげとは罪である、とパウロは語りました。
「兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます」(1)と始まった15章ですが、話は「ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか」(12)と、死者の復活に展開されていきます。「・・・ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(52)と続き、イエスさまが復活されたように、イエスさまを信じる者も復活するのだ、と語ります。そして復活するということは、新しいいのち、新しいからだに変えられることだ、と語られました。
そこで旧約聖書イザヤ書25章8節、ホセア書13章14節が引用されます。
「『死は勝利に呑み込まれた。』『死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。』」(54,55)
ここまでは、十分にとはいえないまでもだいたいは分かります。しかしこれに続いてパウロが語った、「死のとげは罪であり・・・」は、ちょっとよく分からない、といいますか、それまでの文章の流れからすると少し飛躍しているような気がするのですが・・・。いったいパウロは何を語ろうとしているのでしょうか。聖書は何を語ろうとしているのでしょうか。
死が滅ぼされた、私たちは復活のいのちをいただいた、復活のからだに変えられるのだ、といったとたんに、それは、パウロにとっては、罪の問題の解決そのものであった、ということではないでしょうか。
死自体も問題ですが、死の最大の問題は、その死にとげがある、とげがなければ死そのものはそんなに恐れる必要のないものだ、しかし死にはとげがあるので、死は恐ろしいものとなっている。そのとげとは罪である、というのです。死を前にして恐れる私たちが、しかしそのとげである罪が解決されたならば、死はもはや、とげがなくなる、牙のない猛獣、膝に乗った猫のようなものになる、ということでしょう(笑)。死が依然とげを持っていて恐ろしいものであるならば、私たちはその死を人生から締め出すような生き方となります。しかし死はもはや恐れるものではなくなったので、その死をしっかりと見つめて生きることができる。その結果、しっかりと自分の人生を生きることができる、ということだと思います。「メメント・モリ」。死を覚えよ、が実現します。
では死のとげである罪とは一体何でしょうか。犯罪のことでしょうか。倫理道徳的な違反のことでしょうか。パウロは「罪の力は律法です」と語りました。
罪とは何かと考えるときに律法との関係が語られるのです。「罪の力」。罪には力(ドゥナミス)がある、ダイナマイトのようなエネルギーがそこにある。それが問題なのだ。その罪の力とは「律法」なのだ、と語ります。この罪と律法の関係については、ローマ7章に記されています。
「罪は戒めによって機会をとらえ、私を欺き、戒めによって私を殺したのです。ですから、律法は聖なるものです。また戒めも聖なるものであり、正しく、また良いものです。それでは、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ、罪がそれをもたらしたのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされました。罪は戒めによって、限りなく罪深いものとなりました。」(ローマ7.11~13)
律法は決して悪いものではないはずだけれども、罪が律法を利用して私たちを滅ぼすものとしてしまった、ということでしょう。良いものであるはずの律法を、人を滅ぼす律法主義を生み出すものにしてしまった。そこで語られている罪とは、結局のところ「自己中心」ではないでしょうか。この話は話し始めるとかなり長いお話しになりますので、今朝はここまでということになります。
パウロにとって、復活のいのちにあずかる、その新しい生き方は、まさに自己中心という罪からの解放であった、と言ってもよいのではないでしょうか。
私たちも、イエスさまを信じたときに、私の心の王座にイエスさまにお座りいただいて、イエスさまを主として生きるように招かれました。イエスさまを主として生きるということは、聖書の御言葉に導かれて生きるということです。しかしそこで再び自分勝手な聖書解釈と自分にとって都合のよい聖句の引用をしながら、結局自己中心を強化しているということもおこらないわけではありません。
自らの自己中心という罪に向き合い、その解決をいただいたこと、赦しをいただいたことに感謝して生きることが、信仰に生きる者の健やかさを生み出します。