わたしがいのちのパンです

静まりの時 2022年3月15日(火)
ヨハネ6・34~40

「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。』そこで、彼らはイエスに言った。『主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。』イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。・・・わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。』」

(ヨハネ6・33~35、40)

 今日の聖書の個所はヨハネ6章34節からですが、33節から読んでみたいと思います。「神のパン」は「天から下って来て、世にいのちを与えるもの」である。その「神のパン」とはイエスさまご自身である。そのイエスさまの「もとに来る者」は「決して飢えることがない」、そしてイエスさまを「信じる者」は「どんなときにも、決して渇くことがない」。父なる神さまのみこころとは「子を見て信じる者がみな「永遠のいのちを持ち」、「終わりの日によみがえさせ」られる、と聖書は語ります。
 飢えない、渇かない、活き活きと生かされるために、イエスさまのもとに行きイエスさまを信じよう。そうして死を乗り越えてもなお尽きない「永遠のいのち」に生かされよう。そのために「神のパン」であるイエスさまのもとに行き、イエスさまを信じよう、と語ります。
 聖書を読みながら、心の中にイエスさまを信じる、ということですが、これを礼拝の中での招きの言葉として読んでみるとまた違った味わいがあります。
 前の立つ者を先唱者、それに対して応答する者を会衆として記してみましょう。

〔先唱者〕「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです」
〔会衆〕「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください」
〔先唱者〕「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
〔先唱者・会衆、いっしょに〕「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」

 聖餐式の時に、このような交唱による礼拝がもたれていたと想像を膨らませると、続く節の「イエスが『わたしは天から下って来たパンです」と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた』」(41節)も、なるほどと思えてきます。それまでユダヤ教の中にあった人たちにとって、聖餐式を中心とした礼拝は多分に新しい戸惑いを与えたものだったのかもしれません。だからこそ聖餐式はキリスト教の特徴であり欠かせないものです。礼拝は聖書講演会ではなく、イエスさまのからだと血を食するものだった、ということですね。プロテスタントはどうしてもこの6章をやや哲学的に、パンやぶどう汁と象徴的に読んでしまいますが、目の前にパンとぶどう汁とを置いてじっくりと読んでみると、新しい印象があります。何かの本で読んだのですが、インド・コルカタで始まったマザー・テレサの働きは、世界大の働きに広がりましたが、マザーは出かけるところどこででも奉仕をしたというのではなく、ミサを執り行うことのできる司祭のいるところでだけで奉仕をした、奉仕に出かけるときは必ず早朝に行われているミサに出席し、聖体に与って、それから出かけた、というようなことが書かれていました。自分が生きているのではなく、キリストによって生かされている、そうしてこそ飢えることがなく、渇くことがない奉仕ができ、またその奉仕が、死を乗り越える愛の業になるということをわきまえ知っていたということでしょう。
 今コロナ禍で飲食ができない関係でカトリックでは聖体に与る道が難しくなっているようです。一方プロテスタントでは、いろいろな試みが行われています。カトリックでは司祭による礼拝堂での聖餐式が行えないならば聖餐式そのものを控えるということに対して、プロテスタントは、自分たちでパンとぶどう汁と自分たちなりに整えて聖餐式を行おうということになるのかもしれません。そのへんもまたカトリックとプロテスタントの違いかもしれませんね。

 日曜日の夜に放映されている「真犯人フラグ」。録画をして月曜日に見ることになっていたのですが、先日の日曜日に最終回を迎え、すべての答え合わせが行われました。久しぶりにのめりこむドラマでした。最終場面は、立教大学の礼拝堂だったような気がします。
 このところ夜に雨が降り、春雷も鳴り響き、あたたかくなり・・・。今日も、健やかに喜びと感謝をもって一日を送りたい。送りたくない。どっち。
 梅の花が咲いています。

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