何がまだ欠けているのでしょうか

静まりの時 2022年2月5日(土)
マタイ19・16~22

「・・・この青年はイエスに言った。『私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。』・・・」

(マタイ19・20、新改訳2017)

 イエスさまとの律法についての問答の個所は大きく二つあると思います。

一つは、

「すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。『先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。』・・・」(マタイ19・16~)
「イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。『良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。』・・・」(マルコ10・17~)
「また、ある指導者がイエスに質問した。『良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。』・・・」(ルカ18・18~)

もう一つは、

「そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。』・・・」(マタイ22・34~)
「律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。『すべての中で、どれが第一の戒めですか。』・・・」(マルコ12・28~)
「さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。『先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。』・・・」(ルカ10・25~)

 それぞれ微妙な違いがあります。その違いは、執筆の状況、目的、最初の聴衆の違いだと思われます。出来事として同じものであったのかどうかはともかく、一つのことをそれぞれの教会の中でその事情に合わせて神学的なテーマとしていろいろな光を当てているということでしょう。

 さて今日のみことばのマタイ19章16節からの問答は、一人の人、あとで青年と語られている人物がやって来て、イエスさまに質問をするということにはじまります。問いのテーマは、永遠のいのちを得ること。そのために「どんな良いこと」をすればよいかと問います。イエスさまは単純に、戒めを守りなさい、と答えられました。青年は、ではどの戒めか、と問いを重ねます。そこで答えられたのは、十戒の隣人を愛する戒めの一つひとつでした。青年は、ハイ、分かりました、では、それらの戒めをこれから守っていきます、ありがとうございました、ということになりませんでした。(笑)
 この青年は問います。「わたしはそれらすべてを守ってきました。何がまだかけているのでしょうか」。
 これを高慢な答えと理解することも可能だと思いますが、私はどうもそうは思えないのです。
 青年はユダヤ人でしょう。幼い時から十戒の言葉を聞いています。それを守ろうとして生きて来たでしょう。そうすれば永遠のいのちをいただける、天の御国に行くことができる、と学んでここまで来たでしょう。しかし彼には永遠のいのちの確信がなかったのです。確信がない、不安がある、だからいろいろと人に問いかけたことでしょう。しかし誰に聞いても、戒めを守りなさい、としか答えられなかったことでしょう。依然、心の中の飢え渇きは癒されないままです。イエスさまのうわさを聞きました。この方に問うてみようと、こうしてやってきたのではないでしょうか。そうして問いかけたのではないでしょうか。
 しかしイエスさまも今まで聞かされてきたことと同じことを答えられました。なんだ他の教師と同じだ、とむなしい心を引きずりながら帰ることもできたかもしれません。しかし「何か」が彼の足をとどめたのです。そして更なる問いへと彼を導きました。

「わたしはそれらすべてを守ってきました。何がまだかけているのでしょうか」。

 私はここに「奇跡」が起こっていると思います。彼の心に奇跡が起こっているのです。奇跡を起こしておられるのはまさにイエスさまご自身です。
 私はここまで一所懸命に律法を、十戒を守ってきました。しかし心の飢え渇きは依然癒されることがないのです。先生、あなたなら癒してくださるのではないですか。いったい私の何が足りないのでしょうか。何が欠けているのでしょうか、と彼は問います。なんと悲痛な、そして真摯な問い、神さまへの求道の心でしょうか。

 イエスさまは答えられました。イエスさまは答えてくださるのです。その答えは意外です。
「イエスは彼に言われた。『完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。』」(21)

 「財産を貧しい人たちに与える」という行いをし徳を積み上げなさい、といわれたわけではないでしょう。
 「どんな良いことをすればよいのか」「何がまだかけているのか」。この青年は、つねに自分に何かを「プラスする」ということを追い求めてきました。それが永遠のいのちを得る道だと信じてきました。しかしイエスさまのお答えは「与えなさい」それが「完全」になる道だ、と。つまり「マイナスをする」という提案をされたのです。
 得る生き方から、正反対の、与える、献げる生き方へ。手に入れる人生から、手からはなす人生へと、イエスさまは招かれるのです。完全とは、得ることによって生まれるのではなく、手からはなすことで初めて生まれるのだ、と。

 彼は悲しみながら帰って行きました。その理由を「多くの財産を持っていたからである」と聖書は語ります。少しのものを手放すことはたやすいことかもしれませんが、多くを手放すことは難しいということでしょうか。私たちも自分にとってそれほど大切でない者は手放すことがたやすいですが、大切にしているものを手放すことはなかなか難しいことです。
 この後で弟子との問答(ラクダと針の穴のお話し)を合わせて考えると、そこでは「人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」と語られますので、自分で手放すことをあれこれと考えるよりも、そのことも神さまの御手におゆだねすることが求められているように思えます。

 イエスさまのことですから、悲しみながら帰って行ったこの青年をほおっておかれることはないでしょう。イエスさまの提案されたように財を手放してもう一度来ることを願っておられたかもしれませんが、私はそれ以上に、「先生。私は結局、財をを手放すことができませんでした。でもそのままであなたに従って生きたいと思います。人にはできないことも、神であるあなたならばお出来になるのですから」と、やってきることを望まれていたのではないか、そしてそのようにこの青年もイエスさまに従う者となったのではないかとかってに想像しています。