主は唯一である

静まりの時 2022年2月3日(木)
申命記6・1~9

「・・・聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。・・・」

(申命記6・4、新改訳2017)

 「聞け、イスラエルよ」。シェマー・イスラエル、と語られる個所です。神学生のころ、フィールドワークの一つで、神戸にあるシナゴーグに連れて行ってもらったことがありました。大型バイクで登場したレビの家系という方が、会堂を紹介してくださったり、角笛を吹いてくださったり、そして「これをしるしとして自分の手に結び付け、記章として額の上に置きなさい」の言葉の通りの格好をして、聖書を朗読してくださったりしました。なかなか興味深い経験でした。
 「主は私たちの神。主は唯一である」。この「主」は、聖四文字、ヤーウェのことで、このヤーウェなるお方こそ私たちの神である、と語られます。そしてその「主」は「唯一」である、と語られます。
 神さまは唯一、ニューキングジェームズ訳では「the Lord is one」。
 八百万の神の国に生きる私たちには、新鮮な神さま像が語られます。

 ある先生が、神さまが唯一のお方だからこそ倫理が成立する、といったことを言われていました。違う人格の神さまが複数存在するならば、倫理の基準がいくつも存在することになり、結果倫理は破綻するということでしょう。戦争が起こるのは一神教の国だからだ、多神教の国には他を受け入れる心があるので、戦争が起こりにくい、などという言葉を聞いたことがありますがにわかには受け入れられないことでしょう。日本を始め多神教の国に戦争がなかったわけではありませんし、倫理の基準がいくつも存在するので、かえって戦いは止むことがないのではないかと思います。

 この「唯一」という言葉ですが、数ある神々の中でこの「主」こそ唯一の神、本当の神である、つまりナンバー・ワンの神である、との理解できるかもしれません。しかしそれ以上に、オンリー・ワンの神が語られているのではないかと思います。
 たとえば私たちにはそれぞれ「お母さん」という方が存在している(していた)のですが、数あるお母さんの中で、このお母さんが一番だから私のお母さんなのだ、ということとではありませんね。お互いが「選択する」ということを超えて、歴然と存在しているお母さん、ほかには替わりがきかない、そういう「唯一性」がそこにあると思います。おおよそ人格的な関係にはこの「唯一」ということを大切なこととして私たちは考えています。
 これに対して「もの」や「道具」はそうではありません。「替え」がきくのです。もし私たちがこの神さまの唯一性をナンバー・ワンと理解しているだけならば、どこか「替え」の可能性が想像されているような感じがします。しかし私たちの信じる神さまは、愛と義の神、人格(位格)をお持ちの神さま、その神さまとの関係の中に生きる私、ということですので、そこではオンリー・ワンの神さまと人間との関係が生まれているのです。

 愛の関係は不思議なもので、そこに「唯一」ということが要求されています。夫婦を考えてみると、私は愛深いので妻だけではなく、ほかの女性も愛することができるのです、などといい始めると、もうそれは愛ではないことが明らかですね。そこにあるのは愛ではなく、欲望でしょう。
 神さまに対してナンバー・ワンを語り始めると、愛の関係ではなく、欲望の関係、いわゆるご利益信仰の関係が生まれているだけでしょう。

 ということで、次の5節が可能となるのです。

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6・5)

 この唯一性は、創造の神を考えることにおいても大切なことです。私たちを含めてこの世界の存在するすべての被造物は、かならず他者に依存して存在しています。私という存在は両親や先祖に依存しています。ハンバーグは、ミンチ肉に依存しています。鯖寿司は、サバ、お米、酢など調味料に依存していますし、それを作った料理人に依存しています。すべてのものが、そのほかのものがなければ存在できないにもかかわらず、こうして存在できている、ということは、すべてのものの最初に「何にも依存しない存在」があったことが明らかでしょう。何にも依存しない存在は、当然ですが、「唯一」です。

 被造物である人間はこの唯一の神さまを、自然な中で知ることができません。あるいはできたとしてもかなりゆがんだ神さま像となることでしょう。その神さまを知るために、神さまご自身が自分を明らかにしてくださいました。それがイエスさまです。私たちは神さまを知るのに、イエスさまを見ればよいのです。
 そしてそのイエスさまがなしてくださったことが、十字架と復活である、ということですから、私たちはこの十字架と復活の主イエスさまを通して、愛と義の神さまに出会うのです。

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ1・18)
「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」(1テモテ2・5)