イエスの時がまだ来ていなかったからである

静まりの時 2022年1月28日(金)
ヨハネ7・25~31

「・・・そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。・・・」

(ヨハネ7・30、新改訳2017)

 イエスさまが神さまであることを理解できず、イエスさまを捕らえようとする人びと。彼らはイエスさまがどこから来られたかを「知っている」といいます。イエスさまは、確かにあなたがたはわたしがどこから来たかを知っているだろう、しかしわたしは自分で来たのではないのだ、自分が語りたいことを語り、成したいことを成そうとしているのではない、わたしは父なる神さまに遣わされきたのだ、その方こそ真実なるお方だ、あなたがたはその方を「知らない」、しかしわたしは「知っている」といわれました。わたしがその方を知っているのは、その方からわたしは「出て」その方がわたしを遣わされたからだ、といわれたのです。禅問答のような、答えになっているようでなっていないような、不思議な言葉が続いています。
 「知っている」といいはる人間、神をも自分の判断力で判断できると思い込んでいる人間。それに対して、自分からは何もしない、ただ真実である神さまのみこころの中に生きるイエスさま。どちらに真実はあるのか。
 人びとはイエスさまを捕らえようとします。しかしイエスさまに手をかける者、実際に捕らえようとする者はだれもいません。聖書はその理由を「イエスの時がまだ来ていないかったからである」と語ります。神さまご自身が時の支配者である、歴史の支配者であると語ります。

 人間は自分には人生を、そして神を正しく判断する力がある、と高慢にも信じています。しかしそれこそ「罪びと」である人間の姿だと聖書は語ります。人間は神さまによって造られたものであり、神さまの御手の中に帰ることこそ、平安に生きる道であると聖書は語ります。時を、歴史を支配する神さまの御手の中に自らをゆだねること、そこにこそ平安に生きる道、そして真実に生きる道があると、聖書は語るのです。

「・・・『神は最高の真理であるから、謙遜は真理のうちに歩むことである』と。私たちは何もよいものを持たず、あわれさと無に過ぎないことは本当に大きな真理です。これが分からない人は偽りのうちに歩みます。」

(アビラのテレサ(テレジア)、『霊魂の城』、「第六、10章7節」、聖母の騎士社、1992年、351頁)

 昨日は、スカイプというもので、ニュージーランドの宣教師の先生としばらくお話をすることになりました。国際電話が高価だった時代を思い出し、ずいぶん便利な時代に生きているな、と感謝しました。
 牧師館の庭に、妻が育てている沈丁花と椿がつぼみをつけています。少し膨らんできたような・・・。春はそこまで来ているでしょうか。