静まりの時 2022年1月27日(木)
ルカ19・45~48
「それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、彼らに言われた。『「わたしの家は祈りの家でなければならない」と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを「強盗の巣」にした。』・・・」
(ルカ19・45,46、新改訳2017)
本来、宮、すなわち神殿は、父なる神さまの家であり、人びとが神さまにお出会いするところである、そのように祈りの家であるはずだ、しかしそれが強盗の巣になってしまった、人間が強盗の巣にしてしまった、と主イエスさまは言われ、商売人たちを宮から追い出されました。
この商売人。特別に悪徳商人であったわけではありません。人びとが神さまを礼拝するために神殿へとやって来る、その人びとのために商いをしていた人たちでした。礼拝をささげにやってくる人たちの宗教行為を支えた人たちです。また、その中には両替人もいました(マタイ21・12)。当時のローマの貨幣には皇帝の銘が刻まれていました。皇帝を神の子とする言葉が刻まれていました。それをそのままユダヤの神さまに献げるのは信仰的にふさわしくないと、わざわざユダヤの貨幣に交換してくれた人たちです。
むしろ宗教活動をさまざまな面から支えようとした人たち、その「商売人」たちを「強盗の巣」というたいへん厳しい言葉をもって神殿から追い出されたのです。神殿は「祈りの家」でなければならないのに「強盗の巣」にしてしまった。イエスさまはここで、祈りの家を取り戻す戦いをしておられる、ということでしょう。
今日、私たちの信仰生活に置き換えるならば、教会が祈りの家となっているか、それとも強盗の巣にしてはいないだろうか、との問いとなるでしょう。あるいはパウロはコリントの手紙の中で次のような言葉を記しています。
「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」
(第一コリント6・19)
私たち自身が宮、神殿である、というのですから、私たち自身を祈りの家としているだろうか、それとも強盗の巣にしてはいないだろうか、との問いともなるでしょう。
「強盗の巣」と呼ばれなければならない状態とは一体何でしょう。そしてイエスさまがここで取り戻そうと戦っていてくださる「祈りの家」とは一体何なのでしょう。
イエスさまはこの直前で都エルサレムを見て涙されました(41~)。都エルサレムが「神の訪れの時」(44)を知らなかったからである、と涙を流されました。神さまの都であるエルサレムが、神さまの訪れを知らない、と嘆かれたのです。そこではたしかに人びとの熱心な宗教行為が行われています。宗教的な活動は華々しく行われています。献げものは溢れるばかり豊かにささげられています。しかしすべて「人間の行為」として、「人間の計画」「人間のもの」としての営みがそこにあるだけです。神さまが後回しにされてしまっている、それを「強盗の巣」と嘆かれたことなのではないだろうかと思ったりしました。
それに対して「祈りの家」。それは文字通り、祈りの場所、ということかもしれませんが、神さまがいつも中心におられ、自分の計画や行為を横において、神さまのご臨在を仰ぐ、神さまの愛の御手のご支配にゆだねる、神さまに期待し待ち望む、というところ、それが神殿であり、また今日では教会であり、そして私たち自身の「からだ」である、ということではないかと思います。
自分の人生や自分の身体は、自分のものではない、神さまのものなのだ、との信仰。そうしてこそ、人生を豊かにより良く生きることができる、平安に生きることができる、と聖書は語るのだと思います。あまりにも人間が中心となってしまった現代においては、ますますイエスさまにきよめていただかなければならないのだと思います。
いのちが一番大切だと
思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが
嬉しかった(星野富弘)