イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた

静まりの時 2022年1月26日(水)
ルカ9・51~56

「さて、天に上げられる日が近づいて来たころのことであった。イエスは御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれた。・・・しかし、イエスが御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリア人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。『主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。』しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。そして一行は別の村に行った。」

(ルカ9・51、53~56、新改訳2017)

 イエスさまは十字架に架かり死に、三日目に甦られ、天に上げられました。天に上げられる、昇天される、その日が近づいてきた、そのころのことであった、といいます。イエスさまの地上での出来事、その歩みを、昇天という目当てを基準に聖書は見て行こうとします。イエスさまにははっきりとしたゴールがありました。
 エルサレム。そこでイエスさまは十字架につけられます。御顔をそのエルサレムに向け、毅然として進んでいかれます。十字架に向かって、人びとの悲しみや苦しみを一身に背負って進んでいかれます。それはまた人びとの罪や、弟子の裏切りに向かって進んで行かれることでもありました。
 サマリア。当時ユダヤ人と厳しく敵対していた人たちのところを通ることになりました。あるいはそこをわざわざ通られたのかもしれません。準備のために弟子たちを遣わすと、案の定サマリアの人びとはユダヤ人であるイエスさまを受け入れません。すると二人の弟子ヤコブとヨハネが言います。「主よ、私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか」。腹立ちまぎれの言葉でしょうか。それとも本当に自分たちが天から火を下さすことができると考えていたのでしょうか。「天から」ということは、神さまの御許からということでしょう。神さまの力を使って、自分たちを受け入れようとしない者たちをさばきましょう、ということでしょうか。1990年代にカルト的な新興宗教の起こした驚くべき事件を思い起こします。
 私たちのイエスさまは、そのように言う二人の弟子たちを叱られました。そして一行はイエスさまを受け入れないその村ではなく別の村に行きました。
 キリスト教会は、どんなに敵対する人たちをもさばこうとしない、正義の刃をもってさばこうとしません。また同時に、自分たちを受け入れようとしないところに、何が何でもとどまろうとしません。その場をあとにします。ここにキリスト教会の在り方、キリスト教信仰の姿があるように思います。限りなくやさしいキリスト教会の姿があります。

 昨日は、団体理事会がオンラインで開催され、いつもの案件に加えて、総会準備なども行われました。温暖で穏やかな一日でした。感謝です。