静まりの時 2022年1月25日(火)
マルコ6・1~6
「イエスはそこを去って郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。・・・イエスは彼らに言われた。『預言者が敬われないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。』それで、何人かの病人に手を置いて癒やされたほかは、そこでは、何も力あるわざを行うことができなかった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。・・・」
(マルコ6・1,4~6、新改訳2017)
「郷里」それはガリラヤのナザレのことだと思いますが、ここには郷里とだけ記されています。郷里、ふるさと、に伝道に行かれた、しかし郷里の人びとにはイエスさまへの信仰がなかった、それで力あるわざを何も行うことができなかった、と記されています。
力あるわざを行うことができなかった理由は、郷里の人びとの不信仰であった、人間が不信仰であったならばイエスさまは力あるわざを行うことができない、と聖書は語ります。全知全能の神さまですから、何でもできるはずです。人間の不信仰を超えて何でもお出来になるはずです。しかしイエスさまは強制的に何かをなさることがありません。強制的に何かをなされたならば、もはや愛ではないからでしょう。神さまはご自身が力あるわざを行うために、私たちに信仰をお求めになっておられます。
彼らの不信仰とは何でしょう。それはイエスさまを神さまと信じることができなかったということでしょう。何が彼らを不信仰にしたのでしょう。
「この人は、こういうことをどこから得たのだろう。この人に与えられた知恵や、その手で行われるこのような力あるわざは、いったい何なのだろう。この人は大工ではないか。マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄ではないか。その妹たちも、ここで私たちと一緒にいるではないか。」(2,3)
イエスさまへの知識が足りなかったわけではありません。またイエスさまのお語りになられた言葉に心動かされなかったわけではありません。イエスさまの行われる力あるわざを目の当たりにして驚いてもいます。しかしイエスさまへの信仰を持つことができないのです。
彼らはイエスさまのことを誰よりも「知っている」と思っていました。しかしそのことがイエスさまへの信仰の道を阻んだのです。
ではイエスさまの何を知っていたのでしょう。
「この人は大工ではないか」。イエスさまが大工であるということは、並行記事のマタイ13章55節とともにこの聖書の個所に基いています。伝道を開始されたのがおそらく30歳からであるといわれます。それまで大工として地域社会に貢献してこられました。大工と書かれている言葉は、私たちの考える大工という職業とは少し違っていて、家づくりのプロフェッショナル、総合家屋管理業務、みたいなことで、木材だけではなく石なども扱います。さらには家全体のメンテナンスも請け負い、その家族が健康で安全な生活を営むことができるための重要な仕事であったと考えられるでしょう。大工という言葉に込められた意味は、みんな知っている人物、ということでしょう。
「マリアの子で・・・」。この時すでにヨセフは他界していたのではないかと想像されます。しかしそれでも普通は父の名前によって子どもを紹介することが習わしのはずでしょう。わざわざ母のマリアの子と言っているのは、イエスはヨセフの子ではない、といことがささやかれてきた、ということではないでしょうか。イエスさまは聖霊によってみごもったマリアさんから生まれたと聖書は記しますが、世間では依然、ヨセフのあずかり知らないところでマリアは懐妊した、そして生まれたのがイエスである、という部分だけがささやかれ続けたということだったのでしょう。ヨセフ、マリア夫婦が、あの天使ガブリエルの訪問以来、背負い続けているものを想像します。
この「知っている」ということが、イエスさまを神と信じる信仰を阻んだのです。これは信仰とは一体何か、信仰と知識とはどのようなかかわりの中にあるのか、ということを表しているように思います。
知識が不必要である、ということではないでしょう。問題は愛のない知識は信仰を生み出すことがない、と言うことではないかと思います。神さまへの愛によっていただく知恵、知識、そこに信仰が生まれ育まれるのです。そうして生まれた信仰によって力あるわざにあずかることができる。順序は、愛→知恵→信仰→奇跡、という感じですね。多くの人は最初に奇跡をもって来たくなるのかもしれませんが、それでは順序が間違っているので、残念ながらいつまでたっても奇跡にあずかることができません。
さらに彼らの「知っている」ということは、自分の理解力の中に閉じ込める、という方向性を持っていたように思います。自分の理解力のサイズの中に神さまを閉じ込めようとしていては、神さまというお方を受け入れることができません。神さまがほんとうに神さまであるならば、私の理解力を超えてるはずですから。
教会だよりの2月号の表紙に以下の文章を引用しました。
「神認識とは、私が主体として何かを、この場合にはまさに神を、客体として認識するというように単純に考えることのできないものである。何よりもまず神認識とは、まったく反対に、神が認識するということである。キリスト者は神を認識することにおいて、自分の方が神によって認識されているのだという事実によって生きている。」
(G.プラスガー、「神の認識」『ハイデルベルク信仰問答との対話 信仰の宝を掘り起こす』、芳賀力訳 より)
神さまを知ることにおいて、自分の方が神さまによって知られている。その事実によって生きているのがキリスト者である、と。
さて郷里では何一つ力あるわざを行うことができなかった、とは言われるものの、何人かの病人に手を置いて癒された、ということは、それだけで私はすごいことではないかと思います。癒された人にとっては、本当に素晴らしい出会いがあったということなのだと思います。
すこし話がずれるかもしれませんが、このイエスさまの兄弟たちの解説としてフランシスコ会訳には以下のような注がついています。
「イエスの『兄弟たち』とは、血のつながった厳密な意味での兄弟やまたは義兄弟を指すのではないヘブライ語とアラム語には、いとこを意味する語がなかったので、ユダヤ人は親族の者または同胞たちを呼ぶのに『兄弟』を使った。福音書の著者もこのような慣習に従って、『兄弟』という語をイエスの親族に対して用いている。イエスの兄弟と呼ばれる人が、イエスの母マリアの子として記されている箇所は、聖書にはない。・・・」
マリアさんをことさら大切にするグループでは、マリアさんを永遠の処女と理解しますので、このような理解を大切にしています。