人の子らは、どんな罪も赦していただけます

静まりの時 2022年1月24日(月)
マルコ3・20~30

「・・・まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒涜することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒涜する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。・・・」

(マルコ3・28,29、新改訳2017)

 「イエスの身内の者たち」(21)が、イエスさまのその行動を見聞きし、イエスさまを「連れ戻しに出かけ」てきました。イエスさまはたとえ話を用いて、自らの行動が神さまのみこころであることを明らかにされます。その文脈の中で上記の言葉が語られました。
 赦されない罪はない、たとえ神さまを冒瀆するようなことを語っても、それさえも赦されると断言されました。教会が世界に向かって語ることばは赦しです。どんな罪をも赦されるのだと語り伝えるところ、それが教会なのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(ヨハネ3・16~18)

 しかしそのうえで「赦されない罪」があるとイエスさまは語っておられます。それは「聖霊を冒瀆する」罪である、と。驚くべきことであり、また恐ろしいことです。
 では「聖霊を冒瀆する罪」とはいったいどういったものなのでしょう。いろいろと解釈されてきた言葉だと思いますが、大切なことは、ここで聖霊を冒瀆する罪はこれこれこういうことですよと記していない、ということです。つまり私たちには隠されているということであり、いわゆる具体的な罪の行いを指しているのではないということでもあると思います。
 そのうえでここに記されている言葉の文脈を見ると、イエスさまのお働きを見聞きしながら、そこに神さまの働きを認めない、サタンの働きのように決めつけて拒んでしまう、ということが、聖霊を冒瀆する罪として想像してもよいのではないかと思います。

 神さまの恵みのお働きを体験しても、それを神さまのお働きであると認めようとしない、受け入れようとしない、感謝しようとしない、そのような生き方は、すでにさばかれている、さばきの中にある、ということでしょう。私たちは、日々目に見えない神さまに生かされています。その恵みの事実に気付き、受け入れ、感謝しようとしない、ということがさばきの中にある人生である、ということでしょう。
 上記のヨハネの福音書の言葉も合わせて考えるとすると、信じない、ということが、すでにさばかれている、ということなのだ、ということになりそうです。

 ただそのうえで、では「神さまの恵みを拒み続けること」が果たして人間に可能なことなのだろうか、と思う必要があるでしょう。人間はすべて神さまによって造られたものです。ですからどんな人間であっても、その中に神さまの「かたち」をいただいています(創世記1・27)。神さまの恵みに応答するものをいただいているのです。ですから、圧倒的な神さまの恵みの現実に出会うと、その恵みを拒み続けることはできない、それが人間である、と私たちは信じるべきではないでしょうか。もし本当に拒み続ける存在があるとすれば、それはサタンだけでしょう。私たち人間は、人間なのであって、サタンではないのです。

 ですから私たちは、伝道します。救われる魂を求めます。探します。どんなに否定的な心に出会っても、その心の扉が開かれることを信じ期待してたたき続けるのです。それがキリスト者なのです。そしてそこで語ることばは、さばきではなく、赦しを語るのです。

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7・7,8)

 昨日は主の日、礼拝の日でした。感謝な一日でした。別の団体ですが同労者の先生が休暇ということで礼拝に出席してくださいました。かねてより連絡をいただいていたので、お昼をご一緒して交わりをいただきました。フレッシュな伝道者が生まれていることを喜びました。またその献身の生活の祝福を祈りました。

 足のしもやけですが、貼るカイロ、をつま先の付近と土踏まずのところに貼るようにしたところ、なかなかいいですね(笑)。おすすめです。