静まりの時 2022年1月3日(月)
「神は仰せられた。『大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。』神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。」
(創世記1・6~8、新改訳2017)
神さまは天を創造されました(1)。天はもともと神さまが創造された大空だったのですが、神さまはその大空に水を分けるという使命を与えられました。水を分けるという使命をいただいた大空は、ここで天と呼ばれるようになりました。
私たちは「天にましますわれらの父よ・・・」と主の祈りを祈ります。神さまは天におられると信じて祈ります。しかし神さまは天に縛られておられるのではありません。神さまはどこにでもおられるお方です。その神さまがわざわざ天をご自身の居場所としてくださいました。ですから私たちは祈りの時に、大空を見上げ、そこに天を思い、神さまを仰ぎ見て祈ることができるようになりました。
大空はどこまでも広がっています。国境を越えて広がっています。戦争をしている国々も同じ大空のもとに生きています。地の果てにあっても、そこから大空を仰ぐことができます。そうして一つの神さまに祈りをささげることができます。どこにあっても天を仰ぐことができます。たとえ四方八方がふさがっていても、天への道、祈りの道は開いています。
大空は水を分ける使命に生きるものとされました。昨年の朝ドラで、海と空、そこに水が循環していることが語られていました。もし水が満ちているだけであるならば私たちはたちまち窒息してしまします。生きることができません。大空が私たちの生きる空間を守っていてくれるので、私たちは息をすることができます。その大空を天と名づけられました。
天に向かって祈る、その祈りは私たちの呼吸でもあります。天があるので魂が呼吸することができます。窒息しないで生きることができます。祈りを忘れたとき、私たちは窒息し死滅してしまいます。
天をお住まいとしてくださったお方、イエスさまが、私たちを救うために、地に降りて来て下さいました。そして十字架に架かり復活され、そののち昇天、すなわち天に昇られました。再び天に帰られたといってもよいでしょう。天は、私たちの主イエスさまがおられるところ、そこでは主イエスさまの完全なご支配のあるところ、そして親しみのあるところ、なつかしいところとなりました。
私たちはその天から主イエスさまが再臨されることを待ち望んでいます。また私たちはやがてその天に迎えられ、尽きることのないいのちに生きるものとされます。
今日も天を仰ぎ見て生きるものでありたいと思います。
昨日は、今年最初の主日礼拝をささげました。久しぶりの方やはじめての方も加えられました。雪の残る朝でしたが、たくさんの方がご来会されました。祝福を祈ります。
午後は、ゆっくりとしました。(だいたい毎日ゆっくりしているのですが・・・)。お正月ということで百人一首もしました。どういうわけか猫が参戦(じゃま)してくれます。夕刻はいつものウォーキングにも出かけました。冬至も過ぎ新年を迎え少しずつ日差しに力が増しているでしょうか。