涙はぬぐわれる

静まりの時 2021年12月30日(木)

「御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」

(ヨハネの黙示録7・17、新改訳2017)

 迫害の中にあった初代教会の兄弟姉妹たちが、ヨハネの語る主の日の説教に耳を傾けています(黙示録1・10)。天の御国では、主イエスさまご自身が牧者となって牧してくださり、信じる者一人ひとりを祈りの水の泉に導いてくださる。そこでは、神さまご自身が涙をことごとくぬぐい取って下さる、とヨハネは語りました。兄弟姉妹たちは、明日の命も定かでない状況の中にあって、この言葉に力づけられ、信仰に生き抜いたのだと思います。今日、初代教会が経験したような迫害はあまりないのかもしれませんが、つねに天国への希望を確かにして、この地上では旅人であることを忘れず、しっかりとした信仰の足取りをもって一日を歩みたいと思います。

「愛する人の死、たとえば父親や母親の死に関して十分に悲しめなかった人は、いのちの流れを遮断してしまうことがあります。」
(アンゼルム・グリューン、『50の天使ー一年の歩みのために』、キリスト新聞社、2007年発行、109頁)

 信仰を持って生きるということは、どんなに悲しいことがあっても涙を流さない、ということではありません。主イエスさまを信じて生きる者は、人生のなかで出会う悲しみをほんとうに深く悲しむことのできる者です。それは主イエスさまが、その涙をぬぐい取って下さることを信じているからです。主イエスさまが、その涙をぬぐい取って下さることを信じているので、安心して悲しみ、涙することができるのです。
 キリスト教の葬儀では、天国への希望が語られるので、どこか希望のある明るい雰囲気がありますが、しっかりと悲しむ、涙するときも大切ですね。

 昨日は、田んぼには雪が残っていましたが、青空の広がる良い天気の一日でした。このクリスマスに、アガサ・クリスティーの『ベツレヘムの星』を久しぶりに読みました。クリスティーの信仰が少しうかがえる素敵な短編集です。聖書に親しみキリスト教信仰に生きる者が読むと、より深く味わうことができると思います。