最も聖なる信仰の上に

静まりの時 2021年12月22日(水)

「しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。」

(ユダ20)

 「自分自身を築き上げる」。新共同訳では「よりどころとして生活する」と訳されています。原文のギリシャ語では「上に建てる、建て上げる」という単語で、この単語には「家」(オイコス)という単語が含まれています。オイコスは、エコノミー、エコロジーということばの語源になった単語です。
 信仰生活というのは、自分自身を築き上げることである、ということでしょう。信じたら罪いっさいをゆるされ天国のお約束をいただくということですが、それはどんな生き方をしていてもよい、ということを主張しているのではありません。もちろんどんな生き方をしていても、主イエスさまを信じれば救われるのですが、しかしその救いが、新しい生き方を生み出す、という方向性を持っていなければ、本当の救いとはなっていない、あるいは救いの恵みを味わっているとはいえない、ということになるでしょう。主イエスさまを信じる者は、自分自身を築き上げる、という方向性を常に希求しているのです。
 そのような生き方は、自分自身の力でなすのではありません。確かに自分の人生は自分が生きているので、自分の力でなす、ということにはなるのですが、主イエスさまを主と仰ぐという信仰生活は、イエスさまを差し置いて短絡的に自分の力でなす、ということをいいません。
 いまから40年以上前に妻に出会いました。その妻から信仰に導かれました。その時からイエスさまが喜んでくださることを、人生の喜びとしようと思うようになりました。しかし同時に、妻の喜ぶことを、自分の喜びとする生活も始まったように思います。現在までかたときも切れることなくそのような思いの中に生きているのか、というと自信はありませんが・・・。先日の妻の誕生日に久しぶりに花を買いました。それは花を買ってほしいとの願いを妻が持っていたからです。そうして花を買うという私の自力の行動は、私自身の喜びでもありました。この喜びには、妻が花を望んでいるという妻の思いを、敏感に察知するということが必要ですし、実際に花を買いに行くという行動、行いが必要です。愛するということはそういうことです。
 イエスさまを信じた、ということは、イエスさまを愛する信仰生活に招かれたということですから、イエスさまが喜んでくださることはどういうことだろうか、と考える生活をするようになるはずです。またイエスさまが喜ばれないことは避けようと願う生活を求めるようになるはずです。もしそのような生活を求めようとしないならば、イエスさまを信じているとはいえないのではないでしょうか。買い物に行ってレジでお金を払えば商品を渡してくれる店員さんほどには信じているかもしれませんが、人生をおゆだねするほどの愛するお方としては信じていないでしょう。
 イエスさまを愛する信仰生活が、自分自身を築き上げていくのです。その最も大切なかなめとなるものは、礼拝生活です。礼拝でなそうとしていることは、イエスさまを愛するということです。そしてそのために、イエスさまが私をどれだけ深く愛してくださっているのかを学ぶことです。私たちはこのイエスさまの愛の迫りに動かされて、自らを築き上げる者として新しく生きるのです。

 さてそこで今一つの言葉に注目しましょう。「最も聖なる信仰の上に」。自分自身を築き上げるのは「最も聖なる信仰の上」に築き上げるのだといいます。
 この「最も聖なる信仰」とは一体なんであるのか。それは「聖なる」ということばに鍵があります。たとえばパウロはコリントの教会の人びとに向かって「聖なる者」「聖徒」(第一コリント1・2)と呼びかけました。しかしコリント人への手紙を読むと、そこにはさまざまな問題を抱えた人たちの姿が浮き彫りにされています。けっしていわゆる聖人たちではありません。しかしパウロはそういう罪を抱えた人たちにむかって「聖なる者たちよ」と呼びかけるのです。それは彼らがイエスさまのものとなっているという信仰による言葉です。「聖なる」とは「神さまのものとされた」という意味なのです。

 ですから「最も聖なる信仰」とは、神さまのものとされた信仰、神さまによる信仰、神さまの御手の中にある信仰、をいうのだと思います。
 聖書の中で使われている「信仰」ということばは、信頼、忠実とも訳されることばです。私たちが、神さまを信じる、神さまを信頼する、神さまに忠実に生きる、ということも、神さまご自身がまず私たちを信じていてくださり、信頼していてくださり、どんなに私たちが不忠実でも私たちに向かって忠実に向き合って下さる、そういう神さまの御愛の上に、はじめて成立するものである、ということでしょう。

 そのうえで、「聖霊によって祈りなさい」ということばも理解されることでしょう。新共同訳では「聖霊の導きの下(もと)に祈りなさい」と訳されています。
 この「聖霊の導き」ということばは、自分の感情のままに流されるということとは全く別のものなのですが、その辺がなかなか理解されていない現実が教会にあるかもしれません。私たちの神さまは、秩序を重んじられる神さまです。毎日、宇宙の秩序の中に太陽を昇らせてくださる神さまであり、生態系を維持してくださる神さまです。ですから「聖霊」すなわち「神さま」の導きによって祈るということは、日々決まった時間に、主の祈りを始め、教会が大切にしてきた祈りを祈る、ということであるとか、礼拝においても決められたプログラムに従って礼拝をささげるということを指しているのではないかと思います。(少し話がずれますが、礼拝のプログラムは、すべて祈りである、ということができるのだと思います。たとえば賛美は祈りですね。)
 ということで、「天にまします~」というまるでお題目のような祈りと思われるかもしれませんが、この2千年間、顔も知らない多くのキリスト者たちがくり返し祈った祈りを自分も祈っているということに思い巡らせると、なんと聖霊に満たされた、聖霊による祈りであろうか、と胸が熱くなります。

 先日の土曜日から降り出した雪は、日曜日のクリスマス礼拝にいろいろと影響を与えました。土曜日には兄弟たちが雪解けに来てくださいました。日曜日の早朝に来られた兄弟姉妹も集いの後に、雪解けに労してくださいました。本当に素晴らしい兄弟姉妹に支えられている教会だな、と感謝しました。日曜日は久しぶりに礼拝後の茶話会があり、それぞれに準備くださり、良い交わりの時が与えられました。やはり教会にはこういう交わりが必要ですね。
 先日の礼拝説教では、神さまに自分の大切なものをお献げする、とお話ししていた中で口が滑って「バイクも手放しました」などと口走ってしまいました。しかし教会の老齢な兄弟がバイクを新調されたり、若い兄弟が50ccから250ccに乗り換えられたことなどを見聞きして、ひたすらバイクの中古ショップを眺めているありさまです。どうすれば妻に内緒でバイクを購入することができるか、画策中です。どなかた良いお知恵があればご教授くださいませ。

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手放したスペースには、孫のために実家から持ち込まれた子どものころに遊んだバイクを妻が置いてくれました。うれしいやら、悲しいやら。

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素敵な色のバラが、近くの花屋さんにありました。

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雪景色は美しいですね。