静まりの時 2021年12月18日(土)
「愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」
(第一ヨハネ3・2 新改訳2017)
ここに「今すでに神の子どもです」ということばと「キリストが現れたときに、キリストに似た者となる」ということばがあります。イエスさまを信じて洗礼を受けることによって神さまの子どもになる、そしてやがてキリストに似た者となるというのです。
これは、私たちがこの世に生を受けた瞬間から「すでに人間である」、しかしそれとともに「人間になる」歩みが始まった、ということと少し似ています。乳幼児はすでに完全な「人間」ですが、同時に「人間になる」歩みを始めます。はいはい、つかまり立ち、二足歩行、また、あぶあぶといっていたものが、まんま、ごはん、とことばも進みます。さらに人間関係を学びつつ、人生の複雑さも学んでいきます。知恵や知識も増えていきます。そうして最終的な死についても学び備えていきます。人間になる歩みに完成はありませんが、死が完成へ導く大きなテーマであることは確かでしょう。
これと同じように、キリスト者の信仰の歩みも、イエスさまを信じたその瞬間に神の子なのですが、同時に神の子となる歩みが始まったのです。
「キリストに似た者となる」のは「キリストをありのままに見るから」であると聖書は語ります。キリストに似た者となるためには、キリストを見る、ありのままに見る、ことが必要なのです。キリストが現れたとき、すなわち再臨の時にありのままに見るのですが、それまでは、おぼろげながら見ています(第一コリント13章)。しかしおぼろげながらでも「見る」ことによって、私たちは似た者となるのです。
おぼろげながらでも「見る」ということはいったいどういうことでしょうか。キリスト教会が大切にしてきた祈りの一つに「観想」(コンテンポラーティオ)というのがあります。ギリシャ語ではテオリア(見る)ということばで、自分や世界から目を離し、ひたすら神さまを見ていく、そういう修練をしていく、という祈りです。そういう祈りの生活が、神の子である私たちが、神の子となっていく道なのです。
ということで礼拝が自分から目を離し神さまをひたすら見上げる真実の礼拝となることを祈りつつ、その真実の礼拝をささげることによって、イエスさまに似た者となることを信仰生活の大切なこととしています。
五個荘の古民家を改装した喫茶店で油絵画展が行われていました。美しい風景画が並んでいました。喫茶店はまもなく閉じられるそうです。夜に、録画していた日曜美術館で『孤独と反骨の画家 菊畑茂久馬』と観ました。こちらは現代美術ですが、いずれも人生がそこに語られていました。