静まりの時 2021年12月15日(水)
「私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。」
(ペテロの手紙 第二 1章3~4節)
神さまが私たちを召されたのは、ご自身の栄光と栄誉によって、すなわち、私たちの何かではなく、神さまご自身の圧倒的な存在感によってである、と聖書は語ります。ですからこの召しは揺るぐことがありません。
この召しには目的があります。それは「いのちと経験をもたらすすべてのもの」を私たちに与えることです。そしてこれもご自身の栄光と栄誉を通して「尊く大いなる約束が私たちに与えられてい」て、その約束によって「あなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となる」ためです。
ちょっと文章的にわかりずらいものがありますが、神さまは私たちを召してくださり、ご自身の聖さに生きる者としてくださる、そう約束していてくださる、という感じでしょうか。
キリスト者となる、ということは、神さまの聖さにあずかる者となる、敬虔に生きる者となる、それがいのちに生きることである、ということでしょう。イエスさまを信じる信仰に生きるということは、決して倫理道徳に生きることによってもたらされるものではありませんが、しかし、イエスさまを信じる信仰に生きるということは、その生き方に敬虔さが生まれるものである、ということです。
私たち人間にはさまざまな欲望があります。欲望自体はけっして否定されるべきものではありませんが、欲望は「この世の腐敗」をもたらします。これはこの世が腐敗していくとも理解できますし、そのようなこの世の腐敗によって、キリスト者も腐敗していくということでもあるでしょう。キリスト教会の歴史を見れば、さまざまなこの世の腐敗にまみれていることを発見できます。
キリスト者は聖い神さまのご性質にあずかる者となるという希望を見失ってはいけません。イエスさまはそのような者となることをお望みになりご期待くださっているのです。つまり結論としては、倫理道徳にしっかりと生きる者となる、それがキリスト者であるということでしょう。
いま大河ドラマでは、明治維新からの日本を経済の方面からしっかりと前進させた素晴らしい人物が主人公ですが、女性問題ではいろいろとほめられたことばかりではないように描かれています。この方はキリスト者ではありませんのでとやかく言う必要はありませんが、もしキリスト者であるとすれば、どんなに立派なことを成し遂げることができたとしても、伝道者であれば立派な説教ができ、多くの人びとをキリストに導き、教会を建て上げることができたとしても、一人の女性を生涯かかって愛し抜くことがおろそかにされている、ゆるがせにされているとすれば、キリスト者という基準からすれば、まったくいのちに生きているとは言えないということになります。
「キリストには代えられません」という聖歌があります。この歌詞にはキリスト者が闘うべき三つの欲望が記されています。「世の宝」「有名な人になること」「美しい者」ということで、富と権力や名声、そして男性にとっては女性問題です。この三つは大きな落とし穴、あるいは見過ごしにされがちな落とし穴です。
いのちに生きる、それはイエスさまの喜ばれる道に生きるということなのです。
昨日は良い天気でした。ウォーキングでは西の空がオレンジに輝いていました。