明日のことは分からないのです

静まりの時 2021年11月27日(土)

去る19日金曜日の午前に大阪在住の方からお電話があり葬儀をしてほしいとの依頼がありました。もう30年近く前に前任の教会にて洗礼を授けた方のご家族からの電話でした。毎週礼拝に通うという教会生活がなくなっていたのだと思いますが、遺言でキリスト教式の葬儀をと私の連絡先を遺しておかれたようです。前任の先生とも連絡を取りながらではありますが、葬儀の依頼をお受けすることになりました。
この8月に病気が分かり約3か月の闘病生活ののち召天されました。享年65歳。あまりにも早い死でした。葬儀のご挨拶の中で、ご主人の愛に支えられながらの闘病生活だったのだと教えられました。
3人の子どもさんがおられて、当時小中学生であった彼らも立派な社会人となってうれしい驚きをいただきました。みな親しく挨拶してくれました。その中には結婚し子どももいて、故人は孫にも恵まれたのだと思いました。
といういうことで、葬儀は滞りなく行うことができたのですが、なにぶん会場が新大阪の近く。日曜日の前夜式、月曜日の葬儀。それに向けての準備。お電話をいただいて以来あわただしく過ごすことになりました。
電子オルガンも持参するので自動車で行くことにしました。片道2時間。以前なら通うという選択肢もあったかもしれませんが、さすがに体調に自信がなく、大阪に宿をとることになりました。電子オルガンに加えて、葬儀のための黒やガウン、一泊の用意、いつもの薬、血圧計、その他もろもろを積み込んで、妻と共に出発。よくわかって予約したわけではありませんでしたが宿は会場の一軒おいて隣でした。良かったです。すべて終わって帰宅したのが月曜日の夕刻。
そして火曜日は野暮用で京田辺に行くことになっていたので昼過ぎに出発。この日も帰りは夕刻になりました。そんなことでしばらくウォーキングができていなかったのですが、その分の運動は十分にあったように思います。
こういう一連のことが関係したかどうかは不明ですが、火曜日の午前から下痢が始まり、いまもすっきりしない状態が続ています。もともとお腹の弱いたちなのですが、ちょっと辛いですね。食欲はあるので体調は悪くないのですが。

今朝のデボーションテキストからの御言葉は、ヤコブ4章14節から。

「あなたがたは明日のことも、自分の命のこともどうなるかも知らないのです。」

先の葬儀をさせていただいた方のことも、また自分の今回の病気のことも考える、まさにそうだなと思う言葉です。

デボーションテキストには、神は

「悔い改めることができるために私たちに過去を明らかにしてくださり、そして、必要以上に好奇心から未来を隠しておられるのです」

(スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、466頁f)

とありました。

過去の記憶は自己憐憫や自己卑下ではなく悔い改めるため。未確定な将来は、今日を生きるための謙遜を私たちに与えるということでしょう。謙遜に今日を大切に生きたいと思います。

今日と明日は県展の搬入日なのですが、書き始めた絵はいまだ完成しませんでした。ので、今回出すことは出来ません。まあ、完成していても出せるようなものでないのだとも思いますが。高校生の時から幾度か出したことがあるので少しいい気になっていたのかもしれません。高校、大学の時代はまわりに教えてくれたり批評してくれる、同じ絵を描く仲間がいてくれたことは大きなことだったのだと思いました。しばらく油絵の具の臭いに囲まれる時間を過ごせたのはとても良かったなと思っています。

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