あなたの重荷を神と人との仲介者であられる主イエス・キリストに告白し

静まりの時 2021年10月21日(木)

「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」(新共同訳)

(テモテへの手紙第1 2章5節)

あなたの重荷を神と人との仲介者であられる主イエス・キリストに告白し、十字架の前にそれらの重荷を降ろしてください。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、414頁ff

神さまは「唯一」である、と聖書は語ります。この世界に存在するものはすべて何らかの形で他のものに依存しています。たとえば私がこの世界に存在するためには両親の存在がありました。朝食にいただくご飯もお米の存在があり、お米がこの世界に存在するためには、土や水、太陽、気候が必要です。もちろんお百姓さんのありがたい努力が必要です。すべてがそれ以外の何かに依存しなければ存在しないにもかかわらず、こうして存在しているということは、最初に何ものにも依存しない唯一の存在があったことは明らかです。そうでなければ何ものをも存在できないのですから。ですから何ものにも依存しない唯一のものが存在することは論理的に明らかです。大切なことはそれが全能であり愛である神であるということです。そしてその存在は主イエスさまによってのみ明らかにされたといことです。
唯一ということは独善的ということではなく、唯一なので、倫理、道徳の基準が可能となる、ということです。もし唯一でないとすれば、目まぐるしく移り変わる世界の中にあって、倫理や道徳の基準もまた移り変わるものとなるでしょう。確かなものが存在しないということでしょう。ちなみに塚本虎二訳の聖書ではこの唯一ということを「一柱(ひとはしら)」と訳しています。日本語での神さまの数え方なのでしょうか。鬼滅の刃でも出てくるとか。
また神と人との間の仲介者も「人であるキリスト・イエス」ただおひとりである、と聖書は語ります。これも独善的なことを語っているのではありません。また「人である」ということが、神ではないということを語っているのでもありません。私たちが祈りをささげるときに、聖書はいわゆる「ワンストップ」である、というのです。交通安全はあちらの神さま、病気はこちら、というのでは、それはその神は全能ではないということですね。こちらで雨ごいをし、向こうで晴天を祈る世界にあって、神が無批判にご利益を与える神であり、どうじに唯一でなければ、そこには神々のあいだに混乱と戦いが起こるということでしょう。
神さまが唯一であり、また仲保者が、まことの神でありながらまことの人となってくださった主イエスさまただおひとりであることは、本当に素晴らしいことです。神さまは愛なるお方なので、安心して、なんでも祈ればよいのです。私の願望が実現しなければならないという縛りからも自由になり、ただひたすら神さまの御心におゆだねする平安の中に生きることができるのです。たとえ自分の思い通りにならないことがあっても、愛の神さまにゆだねつつ希望に生きることができるのです。そうして私たちは、さまざまに考え方の違う隣人と共に生きることが可能となるのです。

「人であるキリスト・イエス」。聖書は「イエス・キリスト」という順序と「キリスト・イエス」という順序の両方の表記をしています。これは文法の問題というよりも、強調点の違いということです。つまり「キリスト」が先に表記されているところでは「キリスト」すなわち救い主ということが強調されているということです。
私たちの救い主は遠く離れておられるお方ではなく、人となって私以上に私のそば近くに来てくださったお方であり、人間の考え出したものではなく、二千年の昔に確かに私たちの歴史上に存在されたお方であり、そして何よりも十字架に架かって命を捨てるほどの神さまの愛を明らかにして下さったお方なのです。
そのお方がワンストップで私たちの祈りを聞いてくださるのです。

きのうは昼前に最後まで見知らぬ方からの電話があり信仰についての質問を受けました。しかし聞いていると、自分がどこの誰であるかを一切語らず、自分は仏教を信じている、キリスト教はけしからん、間違っている、と結局キリスト教批判を展開し出されました。こちらは心臓がどきどきしてしんどくなったので、すみません、しばらく前に病気をしてしんどいので電話を切らしていただいてよろしいでしょうか、というのですが、耳を貸さずに自分の主張を繰り返されるばかり。何度も電話を切らしていただいてよろしいでしょうか、と丁寧にお話ししてようやっと電話を切ることができたのですが、電話の後で血圧を測ると、上が180を超える事態となりました(笑)。病気後、薬で100以下に抑えているので、これはかなりしんどかったです。しばらく横になってなんとか平常に下がりました。まあ牧師館で生活するということは、24時間こういうことなので、病気になるまえは祈りつつ乗り越えていけたのですが、病気後はかなりこたえます。ハート(心臓)とハート(心)はひとつですね。それにしてもわざわざ電話をして、誰かを批判しなければならない精神状態にさせる、そのかたのお持ちになっておられる信仰というのはどういうものなのか。こちらは病気なのでしんどいので電話を切らしていただきたいというのに、耳を貸そうとしない、そのようにさせるその方の宗教とは一体何なのだろうか、と思わされました。きっと深い悩みがあるのだと思いますが、そんな風に人をさせてしまう宗教や信仰というのは、一体何なのでしょう。もちろんキリスト教も例外ではありません。聖書をしっかりと読んでいかなければキリスト教も同じことをしてしまうことは、歴史が語っています。あらためて私はイエスさまを信じる者としていただいてよかったな、感謝だな、と思いました。

そんな昼の出来事でしたが、午後には妻がシュークリームとカヌレを買ってきてくれ、これは私の身体に毒だろうなあ、といいつつ、食べてしまいました。さすがにカヌレは半分残しましたが。カヌレって、卵の塊みたいな食べ物ですね。(今日、残りの半分を食べまる予定で今から楽しみです)。
また蒲生の人魚の里(人魚がいたのですね。なるほど)というところにある園芸屋さんに妻が教会の玄関に植えるパンジーの苗を買うというので気分転換についていきました。ずいぶん安くてよい苗を買うことができたようで、よかったです。
夕刻は、昨日に続き防寒対策をしてウォーキングに出かけました。
今朝は健やかな朝を迎えています。