これは主のご命令なのです

静まりの時 2021年10月16日(土)

「いつも喜んでいなさい。」(新共同訳)

(テサロニケの信徒への手紙5章16節)

これは主のご命令なのです。
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この勧めには限界がありません。どのような場合にも適用できます。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、408頁f

いつも喜ぶ、絶えず祈る、すべてのことに感謝する。このような日々を送ることができれば何と幸せなことでしょう。主にある者はすべてこのような生き方に招かれています。
「喜んでいなさい」。この「喜び」と訳されていることばは挨拶の時のことばとしても用いられています。ユダがイエスさまを裏切ったときに語ったことば「こんばんは」(マタイ26・49)も、イエスさまが復活されたときに語られたことば「おはよう」(マタイ28・9)も同じこの「喜ぶ」ということばが使われています。挨拶のことばにはそのことばを使う世界の文化が反映されているように思います。日本語では「こんにちは」「さようなら」は文章の始めの部分からなので、それ自体に深い意味がないように思いますが、英語のグッドバイは、ゴッドブレスユー、神さまの恵みがあなたにあるように、でしょうか。フランス語でこれという時に使われる別れのことばのアデューは「ア」と「デュー」つまり「神さまへ」「神さまの御許へ」「神さまの御手にゆだねます」みたいな意味なのだと思います。新約聖書の言葉、ギリシャ語では挨拶に喜びということばが使われているというのも、なにかギリシャの文化がそこにあるのでしょうか。
「喜びなさい」とパウロは命じました。聖書は主にある者に「いつも喜びなさい」と命じるのです。喜びのときはもちろん、そうではないときも、あるいは喜びとは逆の感情がかきたてられるようなときも、喜ぶように命じるのです。
しかし喜びというのは命令されてできることではありません。人間がだれかに、喜びなさい、と命じるとすれば、それはおかしなことだと思います。このことばは、聖書だからこそ可能な言葉なのだと思います。神さまがお命じなるということは、必ず喜ぶことができるように、神さまがして下さる。そのような「約束」がそこにあるのだと思います。

悲しみのとき、苦しみのとき、落胆するとき、怒りのとき、あらゆるときにキリスト者は神さまによって喜びの道を約束されているのです。この喜びは、何をもってしても奪うことができません。私たちは、きょうもこの喜びに支えられて一日を歩むことができます。きょうはどのような喜びが備えられているでしょうか。楽しみですね。

きょうは備えの日。明日の主の日に備えていくつかの準備がなされます。感謝します。あたたかい日が続きましたが、ようやく平年の気温となったということでしょう。寒い朝を迎えました。体調管理に気を受けましょう。

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昨日よりも、少しお月さんが太ってきました。