喜びと祈りが一緒になると、そこから最初に生み出されるのが感謝です

静まりの時 2021年10月17日(日)

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(新共同訳)

(テサロニケの信徒への手紙5章16~18節)

祈れば祈るほど喜びは大きくなるのです。
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喜びと祈りが一緒になると、そこから最初に生み出されるのが感謝です。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、409頁f

喜びと祈り、そして感謝は、三つであってそれぞれが深く結びついているということでしょう。
喜べないときにも祈りをささげるならば、そこに喜びと感謝が生まれる、ということでしょう。感謝できないときにも祈りをささげるならば、そこに感謝が生まれる、ということでしょう。また喜びと感謝は、祈りによって真実なものとなる、ということでしょう。祈りのない喜びは、ときに人を傷つけるものです。あるいは祈りのない感謝は、人を高慢にさせるのではないでしょうか。
祈りとは、心の中心に神さまをお招きするということでしょう。人生の中心が自分ではなく、主イエスさまがその中心にいてくださることを告白する、そのような祈りによって、喜びと感謝は真実なもの、つまり愛に結びつくのです。

絶えず祈ること。祈りが労働組合の団体交渉のようなこと(笑)になっているとすれば、そこに喜びや感謝は生まれませんが、ひたすら神さまを心の王座にお迎えするときとするならば、喜びと感謝に豊かに満たされるときとなるのです。人生を自分の思い通りにコントロールしようとの願望に満ちて祈りをささげているならば、喜びと感謝どころか、焦りと怒りばかりに満ちてしまうでしょう。

絶えず祈ること。祈りの言葉がいつも出てくるわけではありません。祈りの言葉が出てこないときも、私たちは祈ることができます。聖霊なる神さまが「言葉に表せないうめき」をもってとりなしてくださるからです。
「・・・同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8章26節)
ただ静かに黙して、すべてのことをひたすら主におゆだねするのです。
自らの願望から自由にされて、主にある希望に生きる者となるのです。

祈りの言葉が出てこないときには、主の祈りを祈りましょう。また詩篇のことばを祈りとして口ずさみましょう。喜びと感謝に生きる道を、主が備えてくださいます。

「絶えず」ということですから、何をしている時も、その歩みが祈りとなる、そんな信仰生活に私たちは招かれています。日々の営みのすべてが祈りとなる、人びととの語らい、共に生きる道が祈りとなる、つまりそこにイエスさまがいてくださる、そんな瞬間瞬間を生きる者となりなさい、というのでしょう。私が誰かに語ることばを、一番そば近くで聞いておられるのがイエスさまである、私が何かをするときに、それをまじかに体験していてくださるのがイエスさまである、ということです。

今日は主の日、礼拝の日です。新しい一週間のはじめに、主イエスさまの礼拝をささげて出発します。善い御言葉の備えをいただき、豊かな一週間に出発できますように。

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豆の葉が色づいてきました。