静まりの時 2021年10月13日(水)
「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、」(新共同訳)
(テサロニケの信徒への手紙4章16節)
主は私たちの魂だけでなく、肉体をも贖ってくださいました。
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、404頁f
前節15節の「主が来られる日」は新改訳2017では「主の来臨」、英訳では「the coming of the Lord」(NKJV)、原文のギリシャ語では「テーン パルーシアン トゥ クリオゥ」で、再臨のことを「パルーシア」ということになっています。このパルーシアという言葉は、再臨と訳される以外にも「そこにいる事」「い合わせる事」「出席」「臨席」と訳される言葉で、例えばパウロの手紙の中には、人が来た、という事でも使われている言葉です(第一コリント16・17、ほか)。ですからこのテサロニケの個所では、伝統的に再臨と訳されることですが、とにかくイエスさまが文字通りいっしょにいてくださる、そのために来てくださるということを語っています。それで新共同訳では原文通りに「主が来られる日」と訳しているようです。
この再臨、再び来てくださるときはどんな様子であるのか。パウロは「合図の号令」「大天使の声」「神のラッパが鳴り響く」といいます。すなわち誰にも明らかな形で、それは起こるというのです。そうして主は天から降って来てくださるといいます。「主の日は、盗人が夜やって来るように来る」(第一テサロニケ5・2)ですが、それは思いがけない時にやって来るという意味であって、主が来られるときというのは誰の目にも明らかな形でやって来るということでしょう。ある人にはわかるけれども、ある人にはわからない、というようなものではない、ということです。
すべての人に分かる形でやって来てくださるのですから、私たちは安心して、喜びと祈りと感謝(5・16~)に生きることができます。
昨日は、本部の除草・清掃作業が行われました。教会からも幾人かがご参加くださいました。教師たちは、このところZOOMでの会議ばかりだったので、直接に会うのが久しぶり、あるいははじめてという宣教師の先生もおられました。やはり直接に会うということには大きな意味がありますね。私は、会計のことなどで途中に少し参加しただけでしたが、感謝でした。皆さん、ご苦労さまでした。感謝します。
雨の予報もありましたが夕刻はいつもの通りウォーキングに出かけることができました。犬の散歩をしている人が幾人もおられて、妻との会話に「あの犬なぁ・・・」という具合に犬の話題も出てきます。
「あの犬」といっても、どの犬のことなのか分かりづらいので適当に名前を付けます。そんな中に、家でつながれているところを通ると外敵の侵入だとばかりに頑張って吠え、あるじと散歩中のところにすれ違うとえらい愛想のよい犬がいます。柴犬系かな、と思いますが、あまり犬の種類に詳しくないので間違っているかもしれません。私が「ポチ」と名付けると、妻はメスかもしれんでといい「花子」と呼びます。「いや、あれは絶対オスや。よう見てみ。ひげが生えているで」。「・・・」。
曇り空の向こうでは、きょうも夕日が沈んでいきました。