神とともに生きることが幸いなのです

静まりの時 2021年10月14日(木)

「それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(新共同訳)

(テサロニケの信徒への手紙4章17節)

神は死においてさえも私たちとともにおられます。
・・・
単に生きることが幸いなのではなく、神とともに生きることが幸いなのです。死ぬことが悲惨なのではなく、神なしに死ぬことが悲惨なのです。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、405頁ff

再臨のときとは文字通り「いつまでも主と共にいる」ことになるときである、といいます。いま私たちは神さまとともにいるのです。しかしそれが完全に満たされる、完成されるとき、それが再臨である、というのです。
私たちは「今」神さまとともにいるといいつつも、それが完全には実現されていないような気持になるときとはどんなときでしょうか。ほんとうに神さまはともにいてくださるのだろうか、と思ってしまうときとはどんなときでしょうか。
人生の問題に出会う、さまざまな困難に出会うということが、神さまがともにいるということを見えなくさせてしまうとすれば、この再臨の時というのは、そのような神さまが見えなくなってしまうようなことの一切がなくなるときである、ということでしょう。それが「空中で主と出会う」と「雲に包まれて引き上げられる」という二つの言葉に込められているのではないかと思います。
「空中」ということばは「空気」とも訳されることばで、とにかく何の束縛もないという意味でしょう。「雲」はヘブル12・1に「多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いている」(新改訳2017)ということばがありますが、ここに「雲」ということばが出てきます。(新共同訳には訳出されず、最新の共同訳には訳出されています) つまり雲が象徴しているのは、すべての兄弟姉妹たちということになるでしょう。主と出会う、ということは、また先に召された兄弟姉妹とともに出会う、また共に信仰生活を送った兄弟姉妹とともに出会う、ということでもあるのです。それが再臨において主イエスさまが文字通りともにいてくださるということなのでしょう。
そう考えると再臨のときは、本当に待ち遠しいときですね。

発病後12週を経過しました。ひと月を4週と換算すれば三か月を生き抜いたことになります。生き抜いたと言えば大げさに聞こえますが、自分としてはそれが実感なのです。
昨日の午前は、妻は長浜教会の牧師夫人の強力な協力を得て、一昨日に続き本部の荷物の整理をし、私はというと週報の準備などデスクワークで過ごしました。午後は少し足を延ばし、退院後はじめて高速道路にも乗りましたが、ちょっとハードだったかもしれません。あまりスピードは出さないのですが、軽バンの振動と騒音はやはり疲れるようです。夕刻のウォーキングにも出かけることができました。今日は少し動くのを控えた方がよいかなと思っています。慢性心不全のなか健やかに生きるために、筋力と体力がカギであるとお医者さんからは言われています。疲れすぎてはいけないのですが、栄養、筋トレ、有酸素運動、そして休息の4サイクルを意識して過ごすということになっています。
塩分は1日6グラム以内、つまり一食2グラムということなので、妻は心臓のためのレシピを参考に注意深く計量していてくれます。私の方が、体調がよくなってきたからか、ご飯の最後の一口を海苔の佃煮とかでこっそり食べたくなるのですね。ちょっと油断しつつあります。油断、油が切れる、油が切れていのちのともしびまでも消してしまわないように、一病息災で励みたいと思います。
NHK・Eテレの「こころの時代」で、今週の土曜日の午後にホスピスの柏木先生、日曜日の早朝に旧約聖書・コヘレトの言葉(伝道者の書)が再放送で放映されます。録画しておこうかと思っています。