静まりの時 2021年10月11日(月)
「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(新共同訳)
(コロサイの信徒への手紙3章2節)
私の真実の宝は天にあります。
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今なすべきことはただ神を信頼することです。C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、401頁f
上にあるものに心を留める、地上のものに心を引かれない、そのような生き方をしなさい、と聖書は語ります。
「上」は従来の新改訳では「天」と訳されていましたが、原文は「上」という言葉なので、新改訳2017では他の訳と同じように「上」と訳されるようになりました。著者のパウロも当然ここは「天」という意味で使っていると思いますが、それがわざわざ「上」という言葉を使っているのですから、何らかの意味を持たせているということでしょう。意訳というのは分かりやすいのですが、分かりやすいというのは少し曲者(くせもの)です。
また、この心を留める、心を引かれない、は新改訳、最新の共同訳では、思う、思わないと訳されています。思う、思わないという言葉は、感情を表す言葉ですが、原文のこの単語は、感情というよりも意思を現していると思われますので、感情がどうであれ意思をもって上にあるものを思う、心を向ける、という感じです。
「上」と言葉からさまざまに想像がふくらみます。実際に上を向く、上に心を留める、という身体を用いての行動は、あんがい大切なことです。ふさぎ込むという言葉が表しているように、心が沈むと身体も前かがみになり、いつの間にか下を向いています。そういう時に「天を思え」と言われてもなかなか難しいのですが、感情がどうであれ「上にあるものに心を留めよ」「地上のものに心を引かれるな」と言われると、その通りに身体を上に向けていくと、今度はその身体の方に感情がついてくるということが起こるのではないかと思います。
上を向いて、しばらく静かに心を空っぽにしてみたいと思います。
緊急入院、手術からしばらくは絶対安静で寝返りもうってはいけない状態に置かれたのですが、寝ているだけ、というのはかなりしんどいことである、ということを教えられました。今もベッドに安静にしている方々のことを思うと、いかにつらいことかと思います。
人間は寝ている間も無意識に寝返りを打っているのですね。ですから寝返りもうたないということは、熟睡できないという状態でもあります。それで、自動的に上を向いていましたが、上は天井しか見えません。
胸の痛みはほぼやわらいでいたのですが、カテーテルあとの止血の痛み、病変への恐怖、漠然としたさまざまな不安のなか、もんもんと時を過ごします。今何時ごろだろうか、どれだけじっとしていなければならないのだろうか、この状態がいつまで続くのだろうか。看護師さんが、次何時に来ますと言われても、今何時かが分かりません。今何時ですかと聞くともちろん答えてくださるのですが、同時に「あちらに時計がありますよ」と壁を示してくださいます。が、両眼の視力が0.01前後で、コンタクト外した状態では、すべてがぼわーと霧の中。私には何か丸いものがあるということしか見えません(笑)。
そんな中、ちょっとだけさらに上、つまり首をそると、小さな四角い窓がありました。そこからぼーっと外の光が入っています。陽が沈むとおのずと暗くなります。朝を迎えると再び明るくなります。もんもんとした不安な時間を、その四角い窓に少し助けられました。上を向くことは、よいことでした(笑)。
昨日は主の日。共に礼拝をささげることができ感謝でした。ライブ配信での参加も含めて、ところは違っても、主の前にともに礼拝をささげることの恵みに感謝しました。それ自体が神さまの奇跡であることをあらためて覚えて感謝しました。礼拝後はアイリスの苗の販売、また定例の運営役員会も行われ充実した日曜日でした。いろいろとご苦労さまです。体調も守られました。
午後はゆっくりとして夕刻はいつもウォーキングに出かけることもできました。お祈りありがとうございます。
役員さんのバイク友だち(と書けばどの役員さんか分かりますが)に、むかし私が学生の時に家庭教師をした生徒の一人がいます。その彼が数年前に同じように心臓の病気で倒れたけれども、現在は元気にしていてバイクを乗っていると、その役員さんが情報をくださいました。励まされます。