静まりの時 2021年10月10日(日)
「それは、あなたがたのために天に蓄えられている希望に基づくものであり、あなたがたは既にこの希望を、福音という真理の言葉を通して聞きました。」
(コロサイの信徒への手紙1章5節)
私たちはいずれ永遠に神とともに住まうことになります。そこが私たちの真実の住まいなのです。私たちはそこへと向かう巡礼者にすぎません。
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、400頁f
「それは」とは、前節の「あなたがたがキリスト・イエスにおいて持っている信仰と、すべての聖なる者たちに対して抱いている愛」でしょう。コロサイの信徒たちの中にある「信仰」と「愛」は「天に蓄えられている希望に基づくもの」である、地上の希望ではなく、天、すなわち神さまご自身に基づく希望である、けっして変質することのない希望が根拠となっている、それがあなたがたの「信仰」と「愛」である、といいます。
そんな素晴らしい「信仰」と「愛」を生み出した天の希望を「福音という真理の言葉を通して聞きました」とパウロは語ります。つまりあたながたも「聞いた」ことである、というのです。自分たちで生み出したもの、考え出したものというのではなく、誰かから聞いたものである。誰からか。「エパフラス」(7)から学んだのだ、とさらに具体的に続きます。
「福音」とは「聞いたもの」でなのです。
私たちはどうして今聖書を読むことができるのでしょう。それはこの二千年間の教会が伝えてくれたからです。どのようにして伝えたのでしょう。印刷技術はだいたい16世紀ということですから、それまでは「写本」で伝えられました。中性紙のない時代、書き写すということがなければ数十年で消滅してしまったであろう聖書。書き写すということに人生をかけてくださった無数の名もない人びと、先輩のキリスト者によって、今私たちは聖書を自由に読むことができるのです。
またどうして日本語で読むことができるのでしょうか。それは翻訳をした人たちがいたからです。ヘブル語やアラム語で書かれていた旧約聖書をギリシャ語に翻訳した人たちがいました。またローマの言葉であるラテン語に翻訳する人たちがいました。アラム語を母国語としていたであろう使徒たちは、当時の公用語であったギリシャ語で手紙を書き、福音書を書きました。それが新約聖書となりました。その聖書をドイツ語に翻訳したルターは有名ですが、それ以前にもスラブ語や自分たちの国の言葉に翻訳した人たちはたくさんいました。日本語の場合、ギュツラフの訳が有名ですが、それさえ先に中国語への翻訳があったからこそ可能となった部分があります。日本語聖書の中の言葉の多くは中国語の聖書から来ています。
聖書そのものがこのように伝えられたものであるということ、伝えてくださった方々の信仰と愛があったということ、それのおかげで今私たちが聖書を自由に読むことができる、ということ、です。
「福音」。キリスト教信仰も「伝えられたもの」です。何の知識もなく聖書そのものを読むことによって自分の中に生まれた、というのではなく、ともに礼拝をささげ、祈りをし、聖書を学びながら、先輩のキリスト者たちに直接的に、間接的に教えていただいたもの、伝えていただいたものである、というのです。誰かの信仰と愛がなければ、自分の中には信仰は生まれていなかった、今信仰に生きることができるのは、誰かの信仰と愛によるものである、ということを、ここでパウロはコロサイの信徒たちに思い起こさせている、確認しているということでしょう。もしこのことを忘れてしまったら、あるいは希薄にしてしまったら、キリスト教信仰はゆがんでしまう、不健康なものとなってしまうということでしょう。
どのようにゆがむのか、どのように腐敗するのか。それは「独善」です。独善は分派、分裂を生み出しました。
ですから人がひとりでいるのはよくない、ということとともに、教会も一つではよくないのです。たとえ組織的に単立と呼ばれる教会であっても、常に地域教会、あるいは教会の群れ、の中に協力していくということが大切なことなのです。さらに伝えていただいたこの福音を世界に向かって伝えていくこと、さらに次の世代に伝えていくことは、大切な教会の使命です。
このような思いを大切にし続けるためにも、教会の歴史を学ぶことは重要なことですね。
今日は主の日です。復帰後2回目の日曜日、講壇に立ちます。感謝します。
今日の日に備えて、昨日はできるだけ心身ともに整えられて過ごそうとします。ハート(心)とハート(心臓)は一つなので、あわただしく過ごすことで善いことはひとつもありません。午後には少し妻と出かけてみました。いつもの図書館に加えて、八日市文芸会館で行われている「市展」と、少し足を延ばして探検の殿堂で行われている「美を拓くものたち展」。後者の展覧会では、教会の姉妹のご主人も出品されています。また恩師や学生時代の先輩や友人たちの作品も観ることができました。入館料に300円と書かれていますが、その下に少し小さな字で、東近江市民は無料と書かれていますので、該当の方は安心して足を運ぶことができます。
夕刻のウォーキングは、一昨日を反省してゆっくり目に歩きました。夕暮れの風は、身体にも心にもやさしく柔らかに吹いています。