自分においてではなくキリストにおいて見るものに目を注ぐ場合には、私というみじめな人間も、そのような歌いまた祈る群れに属し、そのような感謝し讃美する群れに属することを許されている。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、315頁
イザヤ書62章12節
2012年09月28日(金)
すべてのものをキリストにおいて見る、そうするとそれ自体がいかにみじめなものであったとしても輝いて見えてくるということでしょうか。
自分自身もそうです。自分において見るのではなく、キリストにおいて見るのです。自分自身は本当にみじめなものなのですが、キリストにおいて見るときに、そこに輝きが見えてくるのです。
神さまを賛美し神さまに礼拝する群れに属している自分であることが見えてくるのです。
神さまがそうしていてくださっているのです。
「キリストにおいて見るものに目を注ぐ」場合に、私自身が讃美する群れに属することを許されている、ということは、キリストにおいて見るということをしている自分が、神さまを賛美する群れに属しているということです。ですからキリストにおいて見るということをしないとき、神さまを賛美する群れに属していないことになります。それは平安のない歩みですね。
平安な人生のために、私たちは今日も、あらゆるものにキリストにおいて目を注ぐことをしたいと思います。平安のない歩みをしているならば、キリストにおいて見るということをしていないのではないでしょうか。今から始めても大丈夫です。キリストにおいて見るものに目を注ぎましょう。
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