静まりの時 2021年10月6日(水)
「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」
(エフェソの信徒への手紙6章18節)
あなたがたは神のすべての武具を身に着けなければなりません。自信過剰を捨てなさい。自分がどんなに弱い者であるかを十分にわきまえ、悟りなさい。より価値のある、確かな力の源である天を見上げなさい。
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、394頁f
神の武具が挙げられ、それに続いて「祈りなさい」と書かれています。神の武具には用い方があって、それは祈りである、ということでしょう。祈りを欠かすならば、先に上げられた神の武具も十分に用いることができなということでしょう。
祈りのポイントは「どのような時にも」「霊に助けられて」「祈りと願い」そして「聖徒たちのために」「絶えず目を覚まして」「根気よく」です。
どのような時にも祈ります。苦しみの時、祈りの必要のある時だけではなく、喜びの時も祈ります。そしてこれは大切なことですが、何もない時も私たちは祈ります。
霊によって、御霊によって祈ります。自分の力ではなく、自分の真面目さや、自分の何かではなく、霊に助けられて祈ります。
祈りと願いをもって祈ります。祈りとは願いのことだと思いますので、この二つは分けられません。祈りにおける願いは大切です。しかしここで祈りと願いが分けられて記されているのは、願いではない祈りも大切であるということでしょう。
聖徒たちのために祈ります。それは教会のために、兄弟姉妹のために、そうして神の国の前進のために祈ります。
絶えず目を覚まして祈ります。祈りとは目を覚ましてこそ初めて可能となることなのです。忘我の境地では、それは聖書の語る祈りにはならない、ということでしょう。
根気よく祈ります。新改訳2017では「忍耐の限りを尽くして」祈ります。人間は忍耐がへたくそです。すぐにあきらめたり、忘れてしまったりします。ですから祈りのノートを作ることはよいことですね。
そういう祈りに生きるキリスト者であってほしいとパウロは願うのです。そうして19節に「わたしのためにも祈ってほしい」。しっかりと福音を語ることができるように、大胆に語ることができるように。自分を見れば自信がない。もともと迫害者であることを思えばますます自信がない、しかし福音は大胆に語られなければならない。どうかその任をいただいた者が、しっかりとその任を果たすことができるように祈ってほしい、自分の奉仕は、あなたがたの祈りに懸かっている、とパウロは語ります。
昨日は、教師会が行われ、オンラインでPC画面越しではありましたが、先生方とお出会いし、3時間ほどを過ごすことができました。画面越しはさすがに疲れるので途中で休憩を入れながらでしたが、とても良い時、励ましの時でした。宣教師の中には、この一か月間に本国の家族が召されるといことを経験された先生の報告もありました。コロナ禍で自由に面会できない中、天に送る悲しみを共有しました。
午後は3時に出発し、滋賀県立大学を会場として行われるワクチン接種に向かいました。第二回目です。駐車場から会場まで、少し歩くのですが、前回(4週間前)は、その距離がなかなかしんどかったのです。今回は難なく普通に歩くことができました。走ったりはできませんが。
2回目は副反応が大きいと聞きますが、いまのところ接種箇所の若干の痛み程度となっています。お祈りありがとうございます。
夜、家人が見ていたテレビに、病気をテーマにしたバラエティや、ショッキングな事故を特集した番組が放映されていました。以前は何の気なしに見ていたものですが、病気の番組は自分の状況と直結してしまいつらいものです。またショッキングな事故の場面は、やはり文字通り心臓に悪いですね。テレビを見る気持ちもずいぶん変わりました。
妻からすすめられ読むことになった本、伊坂幸太郎の『逆ソクラテス』が、心にやさしい内容でよかったです。今朝のNKHFM「古楽の楽しみ」ではクラヴサンが静かに、また華やかに流れています。