静まりの時 2021年10月7日(木)
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」
(フィリピの信徒への手紙1章6節)
あなたはすでに勝利を与えられているのです。
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、395頁ff
「イエス・キリストの日」。聖書の中にはほかに「主の日」「キリストの日」という言葉が出てきます。三つの意味があります。一つは旧約聖書に見られるように、政治的、国家的に重大な日。黙示録に見られるように「日曜日」、そして新約聖書に見られるように、再臨の日。この聖句では再臨の日と考えるのが普通ではないかと思います。
時間の流れの中に私たちは生き、生かされています。将来がどのようなものであるのか、それを経験したことのない私たち人間にはわかりません。しかし聖書は「その業を成し遂げてくださる」日に私たちは向かっている、と語ります。その業とは「あなたがたの中で始まった業」、その業を始めたのは私たちではなく、イエスさまである、イエスさまがかの日に完成してくださる、私たちはその完成に向かっている、今という時はこの「完成」に向かう瞬間なのだ、というのです。
善い業とは何よりも救いの業のことでしょう。フィリピは異邦人の町です。そこに福音が宣べ伝えられ救われる人びとが起こされました。信仰生活、教会生活にはさまざまな戦いがありました。この先どうなるのか、という不安のつきまとうことであったかもしれません。そのような人々に向かって、あなたがたの中でその善い業をはじめられたのは、パウロでも使徒たちでもなく、神さまご自身である、その神さまが必ず「完成」に向かわせてくださる、どんなに否定的な状況にあろうとも、私たちは前進しているのだ、神さまが必ず完成してくださる、というのです。
ですから私たちはつねにこの「完成に向かう群れ」であるということができます。先ほど「主の日」の三つの意味を考えましたが、ここで再臨だけでなく、もう一つ、「日曜日」としての主の日も考えあわせてよいように思えてきます。キリスト者は次の日曜日の礼拝を目当てとして一週間を過ごしています。この一週間の信仰生活は、次の日曜日で一つの完成を見る、前回の日曜日の礼拝において、善い業をはじめてくださったイエスさまが、一週間を守り通してくださって、次の日曜日の礼拝において完成してくださる、そういうサイクルの中にキリスト者は生かされている、と。
今日は木曜日ですが、この日も、前回の日曜日に善い業をはじめてくださったお方が、次の日曜日の礼拝に向かって完成して下さる、そういう今日一日である、ということを考えながら信仰の道を歩む木曜日である、ということです。
昨日はワクチンの影響で昼頃から熱が出、少ししんどい一日でした。夕刻のウォーキングもお休みしました。夜には熱も下がり今朝は平熱です。一回目のワクチンの時もそうだったのですが、少し脈が速くなっています。といっても70ほどですので、いわゆる頻脈ではありませんが。薬の影響で脈拍が抑えられているのでいつもは50前後なのです。お祈りありがとうございます。
昨夜は幾人かによって聖書祈り会が行われました。感謝します。