私たちが行うすべてのことは神のためになされるのです

静まりの時 2021年10月3日(日)

「わたしたちは、キリストの体の一部なのです。」

(エフェソの信徒への手紙5章30節)

主キリストとの交わりは、皇帝の冠の中で輝いているどんな宝石よりも尊いのです。
・・・
私たちの状態がどんなに卑しくても、聖霊なる神は私たちの内に住み、そして、私たちは聖霊の内に住まわせていただいています。聖霊は信徒の日々の行動を聖なるものとします。それゆえ、私たちが行うすべてのことは神のためになされるのです。

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、389頁ff

このスポルジョンの言葉に「聖霊は信徒の日々の行動を聖なるものとする」とありますが「聖なるものとする」ということを「私たちが行うすべてのことは神のためになされる」と説明しています。
聖なる、ということばは、そこに「聖い」という漢字が使われていますので、倫理道徳的にきよい、正しい、というイメージを持ちますが、聖書の中で使われている「聖」は、神のものとされた、という意味です。たとえばコリントの教会の信徒に向かってパウロは「聖徒たちよ」と語りかけていますが、コリントの教会の信徒たちは決して倫理道徳的にきよく正しい人たちではありませんでした。パウロはどんなにきよさがなく、正しさがなくても、すでに神さまのものとされたということを見て「聖徒」と呼びかけているのです。
聖なるものとされるということは、すべての行動が神さまのためになされるということである、というのです。教会の奉仕だけではなく、日々の生活におけるすべての行動が神さまのためになされることである、それがキリスト者が聖なるものとされているということであり、またそのような目当てをいただいているということである、というのです。

さて今日の聖句ですが、主にある者はみなキリストのからだの一部、部分である、とパウロは語りました。これは他の手紙にも取り上げられているテーマだと思います。救われるといことは、キリストのからだの一部になる、部分になるということなのです。イエスさまはご自身をぶどうの木であり、イエスさまを信じる私たちはその枝であると言われたことと重なります。
信仰を持つということは、個人的にイエスさまにお出会いすることです。家の宗教がキリスト教だからといって自動的にキリスト者になるのではありません。イエスさまに個人的にお出会いすることが大切なことです。しかしそれは個人的、いわゆるパーソナルな、人格的なイエスさまとの出会いを語っていることであって、個人主義的な、いわゆる共同体を想定しないという中での信仰を語っているのでは、全くありません。キリスト教信仰は、共同体ということと切り離すことのできない信仰なのです。
この「キリストのからだ」とは教会のことです。教会につながるといことが想定されていない、あるいは第二次的なことと考えられているとすれば、それは聖書の語る信仰とは少し違います。イエスさまを信じるのはいいけれども、教会という組織につながるのはどうも納得がいかない、というのは、そもそもイエスさまを信じるということが、キリストのからだの一部になるということである、ということが理解されていないのでしょう。イエスさまを信じることは、イエスさまを愛することであり、イエスさまを愛することはイエスさまを信じる者どうしが互いに愛することなのですから、互いに愛するということは、独りぼっちではできませんね。
プロテスタント教会が生まれたときには、教会に所属することではなく、個人的にイエスさまを信じることが大切である、ということが強調されましたが、それはその時代の中にあった教会の問題を指摘したことであって、聖書の語る教会そのものを否定したわけではありません。つまり当時の教会が本当の教会になっていない、ということに対してプロテストしたということです。もちろんその問題をもった教会は当時の教会であって、その後改革(カトリック改革)が行われ、宗教改革者たちが問題とした多くの部分は、すでに解決されています。また無教会という群れを生み出すことになった内村鑑三も、教会そのものを否定したのではなく、当時のプロテスタント教会が本当の教会になっていないということを指摘した結果生まれたものでしょう。
ですからイエスさまを信じる者は、交わりを大切にします。私たちの団体を生みさしてくださったWECは「信仰、聖潔、犠牲、交わり」を柱としています。交わりは何よりも大切な柱の一つなのです。どんなに信仰に富み、きよさに生き、犠牲的な信仰生活を送っていたとしても、交わりがないならば、あるいは大切にされていないならば、柱の一本がない状態であり、あやふやな信仰生活になるでしょう。
さて、このキリストのからだ、すなわち教会の「範囲」をどこまで広げていくのか、はまた大切なテーマです。「私の通う地方教会」とするのはもちろんではありますが、もう少し広げて、私の団体・教団とするのか、日本の福音派とするのか、プロテスタント教会とするのか、キリスト教会とするのか・・・。
私は私の通う一地方教会をまず第一に考えるべきだと思います。愛は具体的なものです。ですから私の通う一地方教会をまず具体的に考えなければなりません。しかしそれでとどまることなく、その輪を常に広く持っていくことも大切なことです。
使徒信条で「公同の教会」を信ず、と告白します。公同、公に同じ、と書きます。原文は「カトリック」です。もちろんローマ・カトリック教会のことをいっているのではありません。(ローマ・カトリック教会も、つまりローマ公同教会という意味なのです。)
この信仰の告白は、自分の通う教会だけが特別に正しい教会であるということから自由にされる告白です。自分の通う教会にも欠けはあるということを大切に受け止めること。そしてさまざまな違いを持ってはいるけれども、主にあるさまざまな教会、群れ、それも「キリストのからだ」であるということを、受け入れること。そういう告白をしているのです。互いに欠けはあるけれども、その教会をイエスさまがご自身のからだとして愛していてくださることを信じることなのです。

緊急事態宣言が解除となり今日から礼拝と教会学校が再開されます。オンラインでの礼拝によりさまざまな可能性が広がり感謝しています。ともに集うということがどれほど大切なことであるのかを学ばせられます。7月20日の緊急入院から10回の日曜日の説教をお休みさせていただきましたが、今日から説教をはじめます。体力も気力も以前のものとは違い自信はありませんが、準備したものをお伝えしたいと思います。

昨日は、台風一過でよい天気でしたね。

PXL_20211002_082834606PXL_20211002_082857693.NIGHTPXL_20211002_083613159