静まりの時 2021年9月30日(木)
「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」
(エフェソの信徒への手紙2章19節)
あなたが巡礼者として歩むとき、あなたの最大の喜びがあなたの信頼する神にあることを忘れてはなりません。・・・あなたの喜びの源は神にあります。・・・
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、385頁f
現在のトルコ西部、古代はエーゲ海にのぞむ海洋都市であったエフェソ。ユダヤの人たちからすれば異邦人の土地です。そこに福音が伝えられ救われる人が起こされ教会が生まれました。その教会に向かってパウロは、主イエスさまを信じた者は神の家族である、互いのさまざまな違いを乗り越えて一つにしていただいたのだ、と語ります。大切な点は、ここで異邦人キリスト者に対してパウロが語っているということでしょう。とかく異邦人を差別したユダヤ人キリスト者に向かって、私たちは一つにされたのだと語ることは、大切なパウロの使命であったと思いますが、それとともに、異邦人キリスト者に向かっても、自分たちは神さまの家族なのだから一つなのだと語らなければならなかったということです。ユダヤ人キリスト者が差別をしたのが、自分たちが旧約の民であるという自負、あるいは優越感から生まれたものであるとすれば、異邦人たちの中に生まれものは、どうせ自分たちは異邦人なのだ、という卑屈、劣等感と想像してもよいのかもしれません。
人と人の間に壁ができるとすれば、それは一方の優越感と、もう一方の劣等感にある、と言えるかもしれません。その壁を生み出すのは、歴史的なさまざまな違いではありますが、結局のところ人間の心の中にある罪ではないかと思います。
主イエスさまを信じて新しく生きるといことは、この優越感と劣等感から自由にされるということです。一切の罪が赦されて神さまの子としてくださったということは、優越感に生きることからも、また劣等感に生きることからも解放されたのです。ありのままの自分として自由に生きることができるようにしてくださったのです。そうして互いに神の家族として生きる者としてくださいました。
「家族」という言葉は、今日経済(Economy)とか地球にやさしいといったところで使われる「Ecology」といった言葉の語源となった言葉です。ですからただ一つの核家族や親族にとどまらず、かなり大きな枠の共同体に使われる言葉となっていったようです。人類は家族である、あるいは造られたすべてのものは家族である、といった感じです。
ですから家族という一つの単位を想定するとき、そうでない人を排除するために使ってしまうのではなく、つねに広がりをもってとらえるべきでしょう。
たとえば、教会に新しい人が来たときに、まだキリスト者でない方、としてとらえるのか、それとも、やがてキリスト者となる方、ととらえるのかで、違ってくることもあると思います。教会では兄弟姉妹という言い方をしますが、ある教会では、新来会者への配慮としてそれをあえてしないところがあります。またそれだけではなく、兄弟姉妹という言葉で、少々のわがままが許されるという「甘え」みたいなものを生み出すことを避けたいということも聞いたことがありました。そこまで考える必要はないと思いますが、つねに他者を受け容れるといことを大切に考えるためには大切な視点かもしれません。
「家族」。これは本当に不思議な言葉です。この世のあらゆる集団は何かの目的をもって集っています。目的があって作られているといってもよいと思います。学校も会社も、文化サークルなどなど・・・。しかし家族だけは目的というものがありません。まず「存在」しているのです。今年の私たちの家族の目標はこうである、などという家族があると、それはそれで面白いかもしれませんが、その目的にかなわない者はその家族の中に居場所がなくなってしまいますね。何もできなくても、ただ生きているといことだけに価値が置かれる共同体、それが家族です。そしてパウロは教会とはそういうところである、と語るのでしょう。
確かに教会では教会目標を立てますし、宣教という目的を持っています。またその時々に具体的な目標をもって協力します。しかしそれは会社のように一人ひとりが道具のように扱われることではありません。一人ひとりが神さまの大切な子どもとして、その存在が喜びとなることが何よりも大切なことなのです。そういう家族としての価値観を持っているところ、それが教会であるということでしょう。
だれもが安心していることができるところ、それが教会である、互いに違いがあってよい、その違いのままに、共に生きるところ、それが教会であるとパウロはいうのです。救われた者は、変な優越感からも劣等感からも解放していただいたのです。
昨日は、午前に妻は本部の掃除、私は週報準備とともに久しぶりに説教準備に静まりました。午後は妻とともに守山の母を買い物に連れて行き、夕刻、ウォーキング。健やかに一日を過ごしました。今日は、グレース誌の印刷と各教会への発送、9月の最終日なので、団体会計の作業で、一日を過ごします。