静まりの時 2021年10月1日(金)
「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」
(エフェソの信徒への手紙3章12節)
・・・あなた自身の心からの祈りをささげなさい。あなたの内なる思い、あなたの個人的な、しかもあなた自身のうちに蓄えられている思いからほとばしり出る願いをささげなさい。大胆に確信をもって恵みの御座の前に進み、真心をもって願い事をささげなさい。・・・
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、386頁ff
私たちが神さまに「大胆に近づく」ことができるのは「主キリストに結ばれて」いるからです。主キリストに結ばれているので「キリストに対する信仰」に生きることができ、それによって「確信をもって、大胆に神に近づくこと」ができるのです。
まず「主キリストに結ばれている」という十字架と復活のよって成し遂げられた歴史的事実があり、それによって「キリストに対する信仰」が生まれ、そして「確信をもって、大胆に神に近づくこと」ができる、このような順序の中にキリスト教信仰はあります。もし私の「キリストに対する信仰」があり、その土台の上に「主キリストに結ばれている」、それで「確信をもって、大胆に神に近づく」というのであれば、聖書の順番とは違うことになりますし、私の主観的な何かが信仰の土台であれば、その信仰は砂の上に建てた家のようなもので、洪水の時には簡単に流されてしまうでしょう(マタイ7章24節~)。
新改訳や最新の共同訳など多くの聖書では「キリストにあって」と訳されているところを、新共同訳は「キリストに結ばれて」と訳しました。直訳的には前者となると思いますが、この新共同訳の「キリストに結ばれて」は心に留まる言葉です。
「大胆に」と訳されている言葉は「あけっぱなしな事、腹蔵のない事、率直さ」とあり、神さまに対する場合には「喜ばしさ、全き信頼、確信」といった意味になるようです。
旧約聖書に「聖所」というのが登場しますが、そこにはさらに「至聖所」というのがあって、いかに神さまが聖いお方であるのか、また私たちには容易に近づくことのできないお方であるのかが、記されています。この近寄りがたい神さまの聖さを知る者ほど、大胆に近づくことができると語るこの聖句がいかにありがたいことであるのか、喜ばしいことであるのか、また画期的なことを書いているのかが分かることになります。
神さまに親しく祈ることのできる喜びを確かにするためには、実は容易に祈ることなのどできない事であったのだ、ということを知り続けることは大切なことでしょう。ということで、礼拝には「聖さ」が大切なこととなります。
「子どもっぽく」なるのではなく「子どものように」なって、大胆に神さまに祈る者でありたいと思います。
病気からの快復の道は「体力」と「筋力」であると言われました。有酸素運動と有酸素運動を取り入れた筋トレです。統計では週に130分ほどが一番効力を発揮するそうで、それ以上でもそれ以下でも効果が少ないそうです。週130分というとだいたい一日20分前後ということでしょう。しかしある資料では一日1時間はして下さい、とか、午前と午後にするのがよいとか、ゆっくりとしてください、というサイトもあれば少し汗ばむぐらいが大切ですというサイトもあります。いろいろな情報があり患者としては迷ってしまうのですが、きっと個人個人違う部分もあるのでしょう。
昨日は午前に自転車で銀行に行った際、少し頑張って漕いでしまいました。重ねて夕刻にもいつものウォーキングをしましたので、これらが影響したのか、いつになくしんどい夜となりました。入院時、あせっても快復に向かうわけではありませんと知らされていたのですが、退院後も同じようなことを繰り返していまします。やはり焦っているのだな、と思います。なんでも程々は大切なことです。
心筋梗塞後、ある資料では4割がうつを経験するようです。その多くは2か月ほどで快復するそうですが、なかには重篤なうつ状態に陥る方もおられるようです。うつと焦りは深く結びついている、と以前に何かで聞いたことがありました。自分もうつ的な状況を経験しているのかなとも思いました。
夕刻、曇り空の中のウォーキング。田んぼの中で西の空を眺めていると、太陽が顔を出してくれました。西方浄土といいますが日本人は西の空に彼岸へのあこがれを見たのだと思います。キリスト者なのでそういうことにはこだわらないのですが、しかし空を見るということ、空に目を向ける、そして空の鳥に目を向ける、といことは、地のことから目を離し、永遠を思う心を養ってくれるように思えてきます。