常に新しいものと

静まりの時 2021年9月29日(水)

「こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。」

(エフェソの信徒への手紙2章7節)

神のいつくしみは時に日常的な方法で、時に不思議な超自然的な方法で示されます。・・・私が求めようとしていた祝福は、あなたからいただくことにすっかり慣れてしまいました。しかし、それらを常に新しいものと思えるようにしてください。・・・

C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、384頁f

私たちは神さまの一方的な恵みによって救われました。私たちの中に、自らを救う力はありませんでした。罪のためにただ滅びるしかありませんでした。その私を、神さまは救ってくださったのです。罪の一切を赦し、永遠のいのちを与えてくださいました。
私たちが救われたのには目的がありました。その目的とは、神さまのために生きる、ということでした。救われた者は、もう自分のために生きるのではないのです。神さまのために生きるとはどういうことでしょうか。ここに神さまの「その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされた」とあります。自らに示された神さまの「慈しみ」を、自らだけのものとするのではなく、それを「来たるべき世」に現すこと。それが、救いの目的である、というのです。
「来るべき世」とは一体どのような「世」のことでしょうか。「来世」つまり「彼岸」を想像したくなりますが、ここではただ、今生かされている世に対してそののちの世、自分はやがて死を迎えるけれども、その死んだ後も続いていく世、のことと理解してみます。そうすると、今の私の信仰の歩みが、今生かされている世だけではなく、私が死んだ後の世にも影響を与える、私が死んでもなお私に現された神さまのいつくしみが世界に向かって現されていく、そういうことをパウロは言っているように思えてきます。
私たちが神さまの恵み、慈しみに出会わしていただいたのは、聖書を通してですが、聖書は、すでに天に帰った多くの聖徒たちが恵みによって救われたという証言集、証拠書類、ということですから、聖書を通して今生きる私たちに、神さまの限りなく豊かな恵みが示されているということでしょう。
また二千年の教会の歩みが、その歴史が、今生きる私たちの神さまの恵みを伝えています。私たちは歴史を学び、神さまの恵みを発見します。今は天に帰った多くの聖徒たちに示された神さまの恵みを発見します。
さらに、今私が救われた、神さまの恵みによって日々生かされているということが、私が死を迎えてもなお世界に向かって現されていきます。
そのような恵みの連結、恵みの継承というようなことの一員に私もしていただいた、それが救いの目的である、ということでしょう。
これは世々の教会、そして代々の教会に、信仰者は生きるということを豊かに示しています。救いということは個人的なことでは終わらない、あるいは本当に救われる、救いの喜びに生きるというのは、教会に生きる、共同体の中に生きるということと一つである、ということが語られているのだと思います。救われるということは、もう独りぼっちではないという喜びに生きる、ということでもあるのです。
日々、そのような恵みの中に生かされていることを、新しい気持ちで発見し感謝したいと思います。

発症から10週間が経過しました。約三か月で患部が固まるということですから、あと3週間ほどです。日々のリハビリに筋トレも加えつつ前進していきたいと思います。ある心筋梗塞関連の病院のWEBサイトで、心臓の機能が10分の一であるにもかかわらずエベレスト登頂に成功したという文章を見つけました。自分の現在の体調を考えると、信じられないようなことですが、少し励まされることです。4発エンジンの2発が停止し残り2発での飛行ですから、この残りの2発を大事にしなければなりませんが、大事にするということは、ガレージにしまったままにするということではありません。そんなことをすればバッテリーがあがり、ピストンも錆びついてしまい、使い物にならなくなります。ですからかなり慣らし運転が、しかも毎回必要なのですが、2発の力に応じた運転が大切なのです。できるだけ何も考えず、自分らしく、弱さのままに生きていくことになります。
プラモデル作りも飽きてきたので、絵でも描こうかと思うのですが、そう簡単なことではありません。美術教師をしていた妻の父が数年前に亡くなり、たくさんの画材を遺してくれ、妻の兄から譲り受けました。その中にキャンバスも含まれていたのですが、いざ画面に向かってもなかなか心は動かないものですね。

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