静まりの時 2021年9月28日(火)
「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」
(エフェソの信徒への手紙1章10節)
・・・あなたが手にしていないものをこれ以上数え上げないでください! 忘れてはなりません。あなたは主キリスト、そして救い主を信じているではありませんか。ですから、あなたはすべてを所有しているのです。・・・
C・H・スポルジョン、『いこいの水のほとりにて』、382頁f
イエスさまを信じているということは、すべてを所有していることである、といいます。私たちは手にしていないものを数えるのが得意ですが、そうではなく与えられているものを数えることに上手にならなければなりません。
「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され」る。新改訳では「計画が実行に移され」と訳されています。「計画」と訳されている言葉は「家」という語源を持つ言葉です。土台が据えられ、柱が立ち、屋根が葺かれ、壁、内装と作業が進み、いよいよ竣工検査、引き渡しみたいな感じで完成する、神さまの救いのご計画がここに完成する、ということです。その「時」に私たちは向かっている、そして将に来たらんとしているその時の恵みの力の中に今私たちは生かされている、というのでしょう。信仰生活の喜びは、この将に来たらんとしている完成の時の恵みに、今生かされているということにあります。(ですから私たちは「未来」ではなく「将来」に向かっています)
「完成の時」とは「頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」時である、それが完成である、といいます。「頭である」という言葉も新改訳では訳出されていませんが、欄外注に別訳として記載されています。主にあって一つにまとめられる、総括されるという意味です。
これはただ一つになるということをいっているのではなく、頭をイエスさまとして一つになるということです。ただ集まるということではなく、イエスさまという中心がある、そのお方を頭として一つに集められる、まとめていただくということです。これが今日イエスさまを頭として集められた「教会」にて、私たちが学んでいることです。教会は、将に来たらんとしている時を、共に待ち望むところ、その前祝いの現場である、ということです。
そういう意味で教会は、話し合いを大切にするところではありますが、いわゆる民主主義というのとは少し違って、神さま主義、と言いますか、神さまの御心を求めて一つになるところ、ということです。
これは少し別の言い方をするならば、救われるということは、最初に神さまによってすべてが創造された世界、すなわちエデンの園に再び生きる者となる、ということでしょう。神さまのお心を第一にして、全てものが存在する、そんな「時」が再び来る、その「時」に向かって、今私たちは生かされているのです。もうすべてのものを手にしている、所有しているのと同じことです。手にしていないものを数える人生から解放されました。
昨日はよい天気だったですね。午前は自転車で銀行に行ったあと西友の向こうをまわり、市役所の横を通ってさらにトヨタカローラの前を過ぎ、広々とした田んぼ道を、爽やかな秋の風に吹かれながら、ゆっくりと帰宅しました。市役所の横の自転車・歩道に木漏れ日が美しく落ちていました。白鳳の引退決意の報道がありました。お疲れさまでした。照ノ富士にはますます頑張ってほしいところですが、さらに次に続いて横綱が生まれてほしいところでもあります。